もう一首 ねだると二位になるところ

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 歴史というのは、ほんの少しのほころびから、大事件に発展することが多いものです。学校ではそういう裏話は学びません。
 
 源氏が平家打倒に立ち上がったのもそうでした。シリーズでお伝えします。
「あ~、腹が減った。何か食べるものはないか。そうじゃ、三日前に煮た豆があったのう。どれどれ」

 八幡太郎義家は、三日前、米が底をついたので豆でも煮て食べようとした。そのとき、敵が攻めてきたので、豆を煮たままにして、戦い続けたのだった。

 三日の間、空腹を我慢し、それでも敵を倒して帰ってきたのだった。

「な・なんじゃこれは。豆が腐っておるわい。くー。しかし、空腹にはかえられぬ。何か口に入れないと死にそうじゃわい」

 義家は、目つぶり、鼻を押さえながら、腐った豆を食べた。

「うん? なかなかの味じゃ。これは保存食になるのう」

 これが納豆の始まりであった。

 源氏の名を高めたのは、いわずと知れた、源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)の親子である。義家は、岩地水八幡宮で元服したので、八幡太郎義家と呼ばれている。

 頼義は、前九年の役で手柄を立て、昇進したものの、朝廷は、他の者には恩賞を与えなかった。頼義は、朝廷に訴えたが、それでも、朝廷は動かなかった。しかたなく、頼義は、自らの財産を共に戦った武士に分け与えたのであった。これが関東で源氏が勢力を張った始まりであった。

 後三年の役では、長男義家が、清原氏と戦い勝利をおさめた。だた、この戦いを朝廷は義家の私的な戦いと決め付け、恩寵どころか戦費も出さなかった。義家は、父頼義を見習い、自腹で部下に恩賞を与えたのであった。この関東での基盤が、後に頼朝が決起する後ろ盾となるのであった。

 関東に勢力を得た義家であったが、このような経緯から宮廷での地位は高くなかった。

 それでも、武家第一の勢力を誇る義家は、都では非常に恐れられていた。「八幡太郎」の名を聞くだけで、泥棒も恐れて逃げ、「帝が思い病気にかかったとき、八幡太郎が弓の弦を鳴らしただけで、病魔が退散した」と言われるぐらい神格化されたのであった。

 しかし、弟、賀茂次郎義綱の横暴な振る舞いもあり、義家が体面を失うなど、源氏の宮廷における力は少しずつ衰えていった。

 このような歴史的な推移の中で、保元の乱が起こったのである。つづく。

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このページは、宝徳 健が2011年4月 9日 22:32に書いたブログ記事です。

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