親爺の独り言

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 弊社月刊誌、「士魂商才」に私の親父が「昭和ひとけた 親爺の独り言」に毎回掲載してくれています。昭和2年7月1日生まれ。親父に言わせると、明治60年だそうです(笑)。

 身内の話で大変恐縮ですが、私の親父は、私が子供の頃、ものすごく恐い父親で、話すことさえはばかられました。ですから、親父と、死生観とかなんとかは話したことがありませんでした。

 なぜ、士魂商才に掲載してもらっているかというと、私も知らない、昭和ひとけたの戦前の価値観をなんとか残したいからです。今月号に、こんなことを書いてくれました。ぜひ紹介させてください。

「「親父の独り言」にも書きましたが、福島原発の災害防止を担当している皆さんは昔風に言えば「決死隊」です。生死を顧みず「国のため」「皆さんのため」に尽くしている姿は崇高です。生命にかかわる危険な作業を命令する隊長(菅直人のことを言っているのではない)の気持ちを察してください。日本人はどうしてこんなにすばらしい人たちばかりいるのだろうか。私は毎日泣いています。 

 昭和20715日。615日の解体(飛行機がない)された、第十一聯合航空隊に所属していた※先任伍長の私は、200名の隊員を率いて松山海軍航空隊から土佐湾(高知)の警備に向かいました。呉(くれ)鎮守府(ちんじゅふ)第二十一特別陸戦隊。私は18歳でした。※先任伍長=同期トップ。伍長は隊伍の長。陸戦隊とは海軍軍人が陸軍の兵隊のように陸で戦うことです。米軍の土佐湾上陸に備えるということは「死」を意味します。

「オレが死ねば親きょうだい、日本の国は救われる」と思っていた私ですが、日の丸の旗を巻き「天皇陛下万歳」と言って死んでいました。私は国のために死ぬのです。天皇陛下=国家です。この国旗はいまでも持っています。時代錯誤と言わないでください。私はその時代に生きてきたし、今でもそうです。

 

 死ぬときは「海行かば」を口ずさんでいたはずです。

♪海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば草生(くさむ)す屍

 大君(おおきみ)の辺()にこそ死なめ かえりみはせじ-大伴家持

 

 荘厳な調べです。私は♪海行かば は「国歌」と思うほど好きです。

 

 戦争が激しくなり東京六大学野球が中止になったとき、関係者の尽力で、神宮球場で最後の早慶戦が行われました。試合終了後、♪若き血と、♪都の西北を歌い、エール交換の後、澎湃(ほうはい)として♪海行かば、がスタンドから湧き上がったと聞きます。

 

 このときの選手・笠原和夫は学徒出陣で戦地に赴き、敗戦。復員後、わが南海ホークスに入りました。

 安井、河西、田川、山本、笠原、堀井、飯田、筒井。南海ホークスの初期のラインナップ。投手は別所だけを挙げます。

 山本(鶴岡一人)はプレイングマネジャー(選手兼監督)。親分・鶴岡はサードが定位置でしたが、セカンドもショートもいらないほどの広範囲な守備を見せていました。選球眼がよく、見逃しの三振が一度もなかった。

 

 百万ドルの内野と謳われた、一塁・飯田、二塁・岡本、三塁・蔭山、遊撃・木塚の内野陣は、昭和30年代に入ってからです。捕手・野村克也は鶴岡監督に育てられました。」」

  ここまでが、親父の記事です。みなさん、「海ゆかば」ってご存知ですか? 涙が出るくらいすばらしい日本の歌です。私は子供の頃、この歌を知って、感動した覚えがあります。

 ユーチューブの下のアドレスで聞いてください。日本はすばらしい国です。日本人がこの歌を知らないことを私は信じられません。繰り返します。私はこの歌を親父に教えてもらったことはありません。親父は、私に、極力自由な発想をさせるために、私に、自分の考えを押し付けることは一切しませんでした。っていうか、忙しくて話す時間がなかったし、恐くて話すことができませんでした(笑)。

www.youtube.com/watch?v=PfBebI2oFp4

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このページは、宝徳 健が2011年4月23日 19:55に書いたブログ記事です。

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