八紘一宇

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 先日、ネットを検索していたら、ある人(全然知らない人)が、「日本は太平洋戦争のとき、八紘一宇という考え方で世界を征服しようとした」と書いていました。

 腹を抱えて笑ってしまいました。不埒な日教組による戦後の誤った教育の失敗作以外のなにものでもありません。やはり歴史教育は必要ですね。

 でも、八紘一宇ということばを知っている人も少ないのでは・・・。この言葉が、戦時中のユダヤ人を救った言葉であったという事実も含めて・・・。
 大和を平定した神武天皇(まさか、神武天皇を知らないなんていうことはありませんよね?)は、都を橿原(かしわら)に開き、この地で、即位式を行いました。今の橿原神宮のもとになったところです。神武天皇はそのときに、こういうことをおっしゃっています。

「六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)いて、宇(いえ)となさん。また可(よ)からずや」

 これが八紘一宇(はっこういちう)の語源となっています。

 八紘というのは、「天(あめ)の下」という意味で、六合とは、「国のうち」です。世界を一つの家とするという意味です。戦後これが「日本の侵略戦争を正当化した言葉」と批判されました。

 古事記、日本書紀を読んでいない人の空言です。本来の意味は、「これからは国中一軒の家のように仲良くしていこう」という平和宣言なのです。

 戦時中、日本はドイツと同盟関係にありました。ドイツは日本に対して、ユダヤ人迫害政策に協力するように再三申し入れてきました。同盟国の申し入れなので、日本政府もこの問題を議論しました。

 首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣による、いわゆる五相会議が開かれました。その席上、陸軍大臣の板垣征四郎が「神武天皇がこの国を開かれるとき、「八紘を掩いて、宇となさん」と仰せられた。ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反する」と発言しました。

 これによって、日本はドイツの申し入れを退けたのです。

 この後、杉原千畝(すぎはら ちうね)が、赴任地で、ユダヤ人に脱出のビザを発行しまくります。樋口季一郎(ひぐち きいちろう)という少将は、満蒙国境を越えて、あるいはシベリア鉄道で逃げてきた大勢のユダヤ人を助けました。敦賀港や舞鶴港では、多くのユダヤ人難民を何度も受け入れ、「人道の港」と呼ばれました。 神話だと馬鹿にする人がいますが、2600年前に即位した初代天皇の言葉が生きた瞬間でした。日本の国体 八紘一宇が ユダヤ人を救ったのです。

 おしむらくは、東京裁判で、この事実を訴えなかったことです。訴えていれば、東京裁判は成り立たなくなったでしょう。

 日本は、あの戦争で惜しい場面が何度もありました。 まずは、アメリカが突きつけてきた最後通牒「ハルノート」を全世界ないしは、アメリカ本土で公開しなかったことです。公開していれば米国の譲歩を引き出せていた可能性が大です。

 それと、戦闘において、二度チャンスがありました。この二度のチャンスをものにしていたら、勝っていた可能性がかなり高い(いずれ書きます)。

 そして、この八紘一宇によりユダヤ人を助けたことを東京裁判で訴えなかったことです。

 どうです、みなさん。日本は侵略国家ですか? ちょっと事実を知ればそうでないことなど明白になります。

 どなたさんか知りませんが、八紘一宇の本当の意味をお分かりいただけましたか?自分の考えを変えるのはとてもしんどいかもしれませんが、「誰が正しいかではなく、何が正しいか」という保守の考え方も取り入れてみてください。

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このページは、宝徳 健が2011年4月24日 08:13に書いたブログ記事です。

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