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「なんだ、この本は。これでは、われわれアメリカ人は、自分たちの父親の生活水準を維持できなくなる」
1979年、高度成長期の日本を分析したエズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発刊された。当時の日本経済はまさしく日の出の勢いであった。日本の経済系の大学生でこの本を読まない者はいなかったほどである。一方のアメリカでは、「ソ連の軍事力よりも日本の経済力の方が脅威だ」という話がアメリカ人の過半数を超えるまでに至った。
それはやがて、アメリカ経済の屋台骨である自動車産業を揺るがし、半導体や工作機械などの市場をも席捲していった。
日本とは対象に、アメリカ経済は自信喪失の状況にあった。
とうとうアメリカは、こう主張するようになった。
「五百億ドルを超える巨額の対日貿易赤字の原因は、日本市場の閉鎖性にある。もし日本が態度をあらためて市場を開放しないなら、対日制裁をせざるをえない」
アメリカの態度はなりふりかまわなかった。半導体、電気通信、医薬品などの産業部門だけではなく、牛肉、オレンジなどの農業部門、ほかにも木材や公共事業など、ありとあらゆる分野で日本の市場開放を求めてきたのである。
そして、阪神・淡路大震災からさかのぼること、六年前の1989年5月、アメリカは、あの悪名高いスーパー301条を日本に対して発動した。このときスーパーコンピュータ、人工衛星と並んで標的にされた三品目のひとつが木材、つまり建築材料であった。この三つの分野で外国企業の市場参入を阻む不公正を行っているとアメリカは日本を攻撃した。
日本政府は抵抗した。建築基準法は度重なる災害の教訓から日本の国土の状況に即して定められているのだから緩和する意思はないと。
「それではわれわれは議会を説得することができない。スーパー301条を発動するしかない」
アメリカ政府は、一方的な制裁をほのめかせて日本政府に圧力をかけ続けた。
ついに日本政府はその圧力に屈した。1990年6月15日、「木材製品に関連して日本政府が講ずる措置」という書簡をアメリカ通商代表部カーラ・ヒルズ代表に出したのであった。
そこにはこう書かれてあった。
「建築基準は原則として性能規定とすることが望ましい」 (つづく)
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