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今日は端午の節句ですね~。私たちの子供のころ、まだ日本は貧しく、端午の節句にも柏餅は一人一個だけでも食べられるとよい方でした。ちまきをはじめて食べたのは、いつだっけな~。小学校5年生ぐらいかな~。とにかく、初めて食べたとき、こんなにおいしいものがあるのかと思いました。甘かったことを覚えています。甘いものがあまりない時代でした。
なつかしいな~。背比べもしました。姉と背比べをして、父に柱に印をつけてもらいました。姉貴は、「何で男の子の節句が休日で、女の子の節句のひな祭りは休みじゃないの?ずるい」と言っていました(笑)。昭和30年代の日本は、まだ貧しかったのですが、とても幸せな国だったような記憶があります。GDPでは今より劣っていますが、GDH(国民総幸福:Gross National Happiness)は、昔の方が高かったのでは。
では、昔食べた、あま~い、あま~い粽(ちまき)の思い出に浸りながら、短編小説を。
「わが君、それはなりません。秦の罠です。行ってはなりません」
古代支那の楚の国の屈原(くつげん)は、君主懐王を諌めた。屈原は、王族の出であり、学問にも長け、詩文にも明るかった。その上、民の信頼も深く、国家にとって、欠かすことの出来ない人物であった。
しかし、えてして有能な人間は嫉妬を受けやすいものである。ある時、他の臣下が、屈原の才能と実績を妬み、懐王にあることないことを讒言(ざんげん)したのであった。そして、その時期、懐王は、屈原を遠ざけた。
その後、復帰したものの、そのころのしこりが残っているのであろうか。懐王は屈原の諫言を聞こうとしなかった。
強国秦が、楚との友好を深めたいため、懐王を秦の国へ招待したのだった。これが謀略だと見抜いた屈原は、懐王が秦に入ることを反対した。しかし、懐王は、もう一人の臣 子蘭(しらん)の進言を受け入れたのであった。
「わが君、秦は強国。行かなければ出兵の口実を秦に与えるようなものです。警護を固め、そして、秦の招待を受けるべきです」
「そうじゃな。今、秦との戦争は避けなければならないな」
「わが君、なりませぬ。行けば囚われの身となり、帰って来れませぬ」
「屈原、もうよい、何も言うな。余の決定したことじゃ」
こうして、懐王は、秦に行き、そして、囚われ、釈放されぬまま憂死してしまった。
屈原は子蘭をうらんだ。そして、自分をうらんでいる屈原を子蘭もうらんだ。子蘭は、次の王、譲王に屈原のことを讒言し、屈原は江南に流された。
屈原は、江南の江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。屈原をしたっている庶民たちは、心配そうに屈原を眺めていた。
「あなたは三閭太夫(屈原のこと)ではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」
一人の漁夫が尋ねた。屈原が言った。
「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえに追放されたのだ」
漁夫が言った。
「成人は物事に拘わらず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろ(すす)うとなされませぬ。なんでまたそのように申告に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」
「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みをしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らなかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの河の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして、純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」
屈原のこの言葉を聞いた漁夫は、にっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。
滄浪の水がすんだのなら
冠の紐を洗うがよい
滄浪の水が濁ったならば
自分の泥足を洗うがよい
その後、5月5日に屈原は河に身を投げて、一生を終えた。
民たちは、慕っていた屈原が魚のえさにならないよう、粽を河に投げて魚のえさとした。5月5日に粽が食べられるようになった始まりであった。
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