「東條内閣の日米交渉」の解説です。
これまでの経緯を経て、東條内閣は、なおも日米交渉に望みを託しました。十月二日に提出されたアメリカ案をめぐり、第三次近衛内閣は総辞職したわけですが、十一月五日の御前会議において決定された対米交渉要綱により、甲乙の両案で打開を図ることになりました。
日米交渉解決のため、野村吉三郎駐米大使の要請に基づき、来栖三郎大使を派遣することになりました。来栖大使は奥さんがアメリカ人で、語学が達者でした。ハルという国務長官の回顧録では、野村大使の英語は時々何を言っているかわからないところがあったそうです。日米交渉の阻害要因のひとつだったのでしょうか。
日本は石油問題などの交渉がまとまれば、日本軍はいつでも仏印を撤退する気持ちでした。
それでも日米交渉はうまくいきませんでした。最大の障害は三国同盟でした。日本は一方的に条約を破棄するわけにはいきません。でも、ドイツを軍事行動を一緒にしないという意思は伝えていたので、大きな問題にはならないはずです。結局、アメリカは日本と戦争をしたくてしかたがなかったのです。それと、アメリカは、支那から撤退することを強烈に主張しました。何を言っているのでしょうか。日本を戦争に引きずり込みたく、支那に限りない援助をしていたのはアメリカではありませんか。
ひどい話ですね。戦争に引きずり込まれ、市民に無差別の爆撃をされ、原爆を落され、シベリアに60万人を引っ張っていかれるという、明らかに国際法違反の数々の行為を帳消しにされ、ありもしない南京大虐殺などをでっちあげられて東京裁判と言うリンチをされたのです。
有色人種で一国だけ先進国に入ったという、白人国家にとってあってはならないことを実現した日本に対する仕打ちが、侵略戦争という汚名を着せられるということだったのです。
では、次回に続きます。
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