日本ならではの古事記・日本書紀

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 「古事記と日本書紀はどう違うのか」「なぜ二つも歴史書があるのか」などとよく聞かれます。お答えしましょう。それと、万世一系の日本のみが可能な隠された古事記・日本書紀のすばらしさも。

 正しい歴史を知りましょう。間違っても、官房長官の要職にありながら今上天皇が何代かを知らない枝野のようにならないように。国会議員になる弁護士って賢い人が少ないですね。福島、枝野、千石・・・。ああ、左翼の弁護士があまり賢くないですね。稲田朋美氏は賢い。
 天武天皇は国史編纂を命じました。一朝一夕ではできません。息子の草壁皇子(くさかべのみこ)の后であった元明天皇が、太安万侶(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼(ひえだのあれ)による後述を筆録・編纂させたのが古事記です。目的は、天皇家の系図や古い伝承を保存することにありました。古事記は日本語の表音文字を用いています。

 これに対して八年ほど後、これも女帝である元正天皇(げんしょうてんのう:草壁皇子と元明天皇の娘)が舎人親王(とねりしんのう)を「総裁にして編纂させたのが日本書紀です。これは、堂々たる漢文で書かれています。支那人にもわかるように、また、支那に対して国家の存在を示す意図がありました。

 ここまでなら、支那の歴史を編纂した司馬遷の史記とあまり変わりません。古事記も日本書紀も「神代(かみよ)」を扱っています。史記は神話・伝説の類は切り捨てました。

 日本では、神代をつくり、しかも、ひとつの話には多くのバリエーションが伝承されていることを認め、それをもすべて記録しています。日本書紀の「一書に曰く(いっしょにいわく)」とい表現はそれを示しています。「ある本にはこう書いてある、またある本ではこう言っている」といろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて、異説をズラリと並べています。この書き方は世界に例がありません。

 天皇家は他の部族を征服ではなく、できるだけ融合しようとしました。この平和を大切にする心が、支那の史記とはまったく違う価値観を作り上げました。また、こうすることで天皇家の都合だけではなく、客観性を持った世界に類を見ない歴史書が出来上がったのです。

 支那は王朝が何度も替わってしまっているので、古代の伝承そのものに対して司馬遷が愛情を持てなかったのでしょう。

 神話を持たない、または、神話を大切にしない民族は、滅亡するか、内々で戦いばかりに明け暮れています。なぜ、今、小学校で古事記・日本書紀を学ばないのでしょうか? こういうことを知らずに、小学校から英語教育をなどと、お馬鹿なことを言っています。まあ、言っている人間も、不埒な日教組による戦後教育の失敗作なのでしょうけれど。

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このページは、宝徳 健が2011年6月12日 08:04に書いたブログ記事です。

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