親父の親父の物語

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 新シリーズです。このシリーズは右のカテゴリー「親父の生き様 親父のひとりごと」に格納されています。

 私の祖父の名前は、寳德 義一(ほうとく ぎいち)です。会ったことはありません。戦争で抑留されて亡くなったからです。子供の頃、家に写真が飾ってありました。威厳のある写真で、その写真の前では、悪さができませんでした。夜、寝るときもにらまれているようで怖かった~。大人になってから聞いたのですが、三十歳の時のの写真だったそうです。昔の人は、生き方がすごいから、大人に見えます。それに比べて、戦後の教育は情けない。

 さて、その寳德 義一の生誕百年際が平成15年に行われました。関東の一族が集まったのが4月25日。この日は義一の誕生日です。親父の兄弟は毎年この日に集まって東京で飲んでいます。関西の集いが6月7日でした。

 その集いで、私の親父が「寳德 義一生誕百年祭」という資料を取りまとめ、冊子にして一家に一冊配りました。すべて親父の執筆です。昨日、掃除をしていたら出てきました。私のルーツを確認するためにも、ブログで紹介していきます。

 さて、はじまり、はじまり~。

ソ連に強制連行後に病気などで、いまの北朝鮮領内に移送された抑留者のうち、東海岸沿いで元山(げんざん)郊外で、約1万2千人もが死亡していた"新事実"が判明した。

 日ロ関係者によると、独裁者スターリンは第二次大戦終戦翌年の昭和21年4月(1946)、日本人シベリア抑留者のうち伝染病を含む各種病気や営業失調で「労働力」とみなされなくなった抑留者の「秘密帰国」指令を発した。満州などからソ連領内への強制連行が始まってまだ8ヶ月目だった。

 これに従い、シベリア・極東全域と中央アジアなどの収容所で強制労働していた抑留者の中から、帰国対象者が選抜されて貨物列車に詰め込まれ。、同年9月までの約5ヶ月間に集中的に北朝鮮と旧満州に移送された。

 同筋によると、「その総数は約4万7千~4万3千で北朝鮮には半分以上の約2万7千人が送られた」としている。

 同筋は、「この約2万7千人は北朝鮮への移送途中でナホトカに近いポシェット収容所に到着するまでに死亡した。今の北朝鮮に列車でたどりついたのは約2万4千人だった」という。

 さらに「この2万4千人のうち、ざっと半数が日本に帰国したが、オンコ利の半数は元山郊外の病院を兼ねた第4・第5収容所の2か所で死亡した。2万4千人の全リストは巡り巡って現在、サンクトペテルブルグの公文書館に保管されている可能性が濃厚だ」と語った。

つづく

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このページは、宝徳 健が2011年7月 4日 09:10に書いたブログ記事です。

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