このシリーズは右のカテゴリー「親父の生き様 親父のひとりごと」に格納されています。
私の親父(佳男)が、自分の親父(私の祖父:義一)のことをまとめて書いたものを紹介しています。これは、親族一家にひとつ、配られました。配ったのは、平成15年6月7日です。この日は、関西方面の親族の「寳德義一生誕百年祭」でした。
義一の話に戻ります。
戦後、吉永校長のお宅を、福岡県京都郡(みやこぐん)犀川(さいかわ)村(いまは町)を訪ねたとき、お父さんの消息の断片を聞きました。羅南(清津府)で終戦を迎えたお父さんは、徒歩で或興中学校に設置された捕虜収容所に送られたのですが、通訳として捕虜収容所に入っていた吉永校長は「君のお父さんにお会いした」と言っておられました。
或鏡南道廰(かんきょうなんどうちょう)時代"道廰一の美男子"(当時ハンサムという言葉はない)と謳われたお父さんは女性にモテたようです。あるとき、さる女性からまっ赤なセーターが贈られてきました。それを見てお母さんが泣いていたことがあります。
没落前のお金持ち(朝鮮語では両班(ヤンバン)サラミ)の家に育ったぼっちゃんだったので、怒るというのは我が儘な裏返しだったのかもしれませんが、ハンサムだし、立ち居振舞は女性を魅了するものがあったのは確かです。
(つづく)
或鏡南道廰(かんきょうなんどうちょう)時代"道廰一の美男子"(当時ハンサムという言葉はない)と謳われたお父さんは女性にモテたようです。あるとき、さる女性からまっ赤なセーターが贈られてきました。それを見てお母さんが泣いていたことがあります。
没落前のお金持ち(朝鮮語では両班(ヤンバン)サラミ)の家に育ったぼっちゃんだったので、怒るというのは我が儘な裏返しだったのかもしれませんが、ハンサムだし、立ち居振舞は女性を魅了するものがあったのは確かです。
(つづく)
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