親父の親父の物語

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 私の親父(佳男)が、自分の親父(私の祖父:義一)のことをまとめて書いたものを紹介しています。これは、親族一家にひとつ、配られました。配ったのは、平成15年6月7日です。この日は、関西方面の親族の「寳德義一生誕百年祭」でした。

 では、つづきを。

 昔の長幼の序とはこういうものなのでしょうね。今回は、食堂車の件ですが、席も、じいさんが一等車で、親父は二等車に乗せられたそうです。
 長男の特権というか、ボクはお父さんと一緒に日本内地(玉川・敦賀市)に来たことがありました。道中が大変なんです。眼つきの鋭いお父さんは、当時列車に同乗していた移動刑事に眼をつけられる。名刺を出す。なんとその名刺には「寳德義一」としか書いていない。刑事は怪しむ。関釜連絡線(下関~釜山間、8時間)の釜山側の長い長い桟橋で列をつくって歩いていると、グイッと袖を掴んで横に引っ張り出され、トランクをぶちまけさせられる。

 あのときは、下関から当時モダンだった特急"さくら"(展望車が連結してある)に乗りました。・・・と、また刑事が来る。肩書きのない名刺を怪しまれる。この"さくら"には食堂車がついている。昼食は息子は駅弁。お父さんは食堂車に出かける。

 朝鮮でたまに乗る列車は"混合"といって、客車と貨車が文字通り混ざっているものばかりだったので、展望車が・・・、食堂車が・・・、というのは珍しかった。関釜連絡線は"興安丸"。これが船かと思うほどデカいのに驚く。戦後、興安丸は引揚船として大活躍しています。

 下関の改札口で、首からかけていた魔法瓶(いまはジャーという)をぶつけてしまい、ガラスが割れて、お湯が流れ出しました。これが内地上陸での失敗第一号です。身体の弱かったボクは寝台を奮発してもらっていたが、8時間も船に揺られると足元が定まらないのです。

(つづく)

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このページは、宝徳 健が2011年7月23日 07:53に書いたブログ記事です。

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