このシリーズは右のカテゴリー「親父の生き様 親父のひとりごと」に格納されています。
つづきです。
元山で行われた「水産共進会」を覚えているのは姉さんとボクになりました。表紙に「魚網」をあしらった、会場案内のパンフレットはお父さんのデザインです。ボクは下絵を何枚も見ています。
このときのある日。お母さんと正是はでかけ留守でしたが、どうしたことか水道の栓が止まらなくなり、水が流れ出しました。小学生の姉さんとボクはどうすることもできない。ふたりは泣きながら、水産共進会にいるお父さんのところへ行きました。
元山泉町小学校の同学年、赤組の稲富和子(旧姓池田)さんのお姉さんは、この水産共進会を覚えていて、しかも寳德義一さんと正確に言いました。お父さんの名を家族・親戚以外から聞いたのは初めてだったので、何か仕事の関係かなと思ったりしました。
お父さんは泳ぎが得意でした。松濤園(しょうとうえん)で、正是とボク二人を背中に乗せて泳いでいました。方抜き手(右手だけで泳ぐ)という泳ぎがありますが、まさに芸術的な感じがしました。泳ぎは卓が受け継いでいます。日本アルミのプールで卓は職場の選手で活躍していました。
卓は櫓を漕ぐのがうまい。多摩川から四ケ浦までの伝馬船で鍛えたのでしょう。また卓は魚を開くのもうまい。伊豆半島の「土肥(とい)金山跡」(土肥マリン)で地引網をしたとき、馬面(うまづら)カワハギをみごとな手さばきで刺身にしていました。
つづく
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