支那紀行 その34

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 万里の長城に着きました。
 今の北京は光化学スモッグで晴れ間は見られないそうですが、当時はまだそんなことはありませんでした。昨日の紫禁城の写真を見てもお分かりいただけると思います。

 万里の長城に行っても、透き通るような青空でした(写真をなくしたのが実に残念です)。青空の中に、ずーーーっと、入っていくように長城が伸びています。実にすばらしかった。本当にすばらしかった。ここで、蒙恬将軍や扶蘇が活躍したのですね。

 秦の始皇帝は、自分に意見をした扶蘇を蒙恬将軍の下で勉強しなおせと命じます。でも始皇帝は聡明な扶蘇を跡継ぎにと考えていました。旅の途中で絶命した始皇帝は、亡くなる前に、宦官趙高(ちょうこう)に、後継者は扶蘇にするように命じます。でも、それを聞いていたのは自分だけ。あの聡明な扶蘇が皇帝になると自分の立場があやうくなるとして、画策します。始皇帝は蒙恬将軍と扶蘇を罪に落としいれ、扶蘇に自害させてしまいます。そして、間抜けな弟(扶蘇の)を皇帝にまつりあげます。権力を一手に握ります。

 あるとき、趙高は朝議に鹿を連れてきます。これは馬だといいます。鹿だと言い張った人間を粛清します。これが「馬鹿」の語源です。

 扶蘇が皇位についていたら、秦は永らえたかもしれません。

 日本の皇室は、古代支那のよいところをたくさん取り入れました。支那の古典の世界を実践している一家は、日本の皇室しかありません。でも、宦官、科挙、纏足、拷問などは絶対に取り入れませんでした。これが日本の皇室のすばらしさです。

 まあ、科挙は、明治維新後、高等文官試験として取り入れてしまいました。だから、日本の官僚制度はこの国をだめにしています。

 明治維新は、下級武士が権力を握ったので、金や権力にはとっても汚い一面もありました。特に官僚に。山県有朋はその最たるものです。

 おっと、万里の長城でした。

 支那人は、自国の歴史をしっかりと勉強した方がいい。いいところも悪いところも。自分たち支那人がどういう民俗かを知れば、もう少し反省も出てくるだろう。

 いつの時代も、世界を乱すのは、支那人とアメリカです。アメリカの方がすごいですがね(笑)。

 さて、香港で取得したビザの期限が迫ってきました。このままでは、二人は不法入国者になってしまいます。

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このページは、宝徳 健が2011年12月22日 09:23に書いたブログ記事です。

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