支那紀行 その38

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 1983年(昭和58年)2月に親友のYTJと、当時は日本国内では個人旅行のビザが取れなかった支那へ、香港でビザをとって、旅をしました。

 紫禁城からでしたね。
 紫禁城は、元が作ったものを、明の永楽帝が1406年から改築して、1421年に南京から北京に都とを遷してから、清朝滅亡まで使われていた宮殿です。ラストエンペラーの映画にも出てきますよね(まあ、この映画は嘘ばっかりですが)。

 ラストエンペラーは、愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)です。清の国は、漢民族の皇帝ではありません。女真族といって、満州族が支那を支配していました。なぜ、満州という名前かというと、女真族は、文殊菩薩を信仰していました。文殊がなまって「満州」となりました。

 だから、満州は一度も支那の領土になったことはありません。いいかげんな孫文が、だまし討ちのようにしてとった領土です。その後、日本が協力して満州国を作りましたが、世界有数の工業国になり、国も栄え、支那から、人間がどんどん入ってきました。私たちは、日本が満州で悪いことをしたと学校で習いましたが、まったくの嘘です。そんなに悪い国なら、人口が増えるはずがない。

 毛沢東は、建国にあたって、満州国さえあれば共産主義革命は成功すると言いました。それほど、満州をすばらしく似にしたのは日本の力です。

 さて、1908年12月に西太后が、愛新覚羅溥儀を皇帝に指名しました。わずか2歳10ヶ月です。清朝第12代皇帝です。清朝最後の皇帝として、紫禁城に住むことになりました。

 でも、蒋介石が台湾に逃げるときに、ここの宝物をたくさん持っていきましたので、台湾の博物館の方が面白い。

 まあ、広いところでした。全部見ようと思ったら、1週間ぐらいかかるのではないでしょうか。かくれんぼしたら、絶対に見つからないなあなどと、馬鹿なことを考えて回っていました。

 晴れ渡ってきれいでしょ! 今の、公害だらけの北京ではこんな空は見られません。

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このページは、宝徳 健が2011年12月28日 07:52に書いたブログ記事です。

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