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正岡子規の「歌よみに与ふる書」の第二章「再び歌よみに与ふる書」のつづきです。現代語訳しています。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」の第二章「再び歌よみに与ふる書」のつづきです。現代語訳しています。
「香川景樹(かがわかげき)は古今の紀貫之の崇拝者にて、見識の低いことは今更言うまでもない。だから、この人の歌には俗な歌の多いことももちろんである。しかし景樹には善い歌もたまにはある。自己が崇拝する貫之よりも善い歌が多い。ただ、それは景樹が貫之よりもえらかったのかどうかはわからない。景樹の時代には貫之の時代よりも進歩している点があるということは間違いないだろうが。したがって、景樹に貫之よりも善い歌ができるもの当たり前である。景樹の歌が、ひどく玉石混交なのは、俳人でいうと蓼太(りょうた)に匹敵するの。蓼太は、稚俗巧拙の両極端を備えた男手、その句に両極端が現れている。かつ、満身の覇気によって、人々をだまし、全国におびただしい、派閥をもっていたことなどもよく似ている。景樹を学ぶなら善きところを学ばねば、邪悪に陥ってします。今の、景樹派などと申すは、景樹の俗なところを学びて景樹よりも下手である。縮れ毛の人が束髪に結ぶをよいことと思って、かえって、変な格好になるのと同じである。くだらない歌書ばかりみていては、自己の迷いはなかなか覚めない。見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らないで、隣の汽車が動いているように錯覚するとおじである。」
次回から第三章です。
では、拙首です。
活学を 学んで自己を 変えようと もがけばもがく ほどに苦しい
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