このシリーズは右のカテゴリー「心理学」に格納されています。
心配性の人は、よく、「私はこういうのは許せない」「私はこうやらなければ気がすまない」「私はこういうのは嫌だ」という言葉をよく使います。
心配性の人は、よく、「私はこういうのは許せない」「私はこうやらなければ気がすまない」「私はこういうのは嫌だ」という言葉をよく使います。
そして、相手の行為を非難するのですが、自分が他人に行ってしまっていることは気づきません。気づかないどころか、「自分は完璧にやっている」と思い込
んでしまっています。そして、心配性の方々にこれを指摘すると(心配性の方にはこれを指摘してはいけないのですが)、「そんなことはない。自分は、いつ
も、人のことを考えている」と言います。
そうなんです。自分が思っている「あるべき」「どうせこうなる」思考で、他人を図っているので、自分が見えなくなってしまってしまうのですね。狭い自分の世界で、善悪を判断するのです。そして、自分も他人もとても疲れてしまいます。
これは、それまで育ってきた環境が作ってしまっています。だから、論理療法という心理学ではこれを「自分に責任のない不幸」と呼びます。
論理療法とは、この「自分に責任のない不幸」から自己を解放しようというものです。
さて、昨日の続きの「不確実な点が残っていることに心配性の人が耐えられなくなる過程」は明日書きますね。
そうなんです。自分が思っている「あるべき」「どうせこうなる」思考で、他人を図っているので、自分が見えなくなってしまってしまうのですね。狭い自分の世界で、善悪を判断するのです。そして、自分も他人もとても疲れてしまいます。
これは、それまで育ってきた環境が作ってしまっています。だから、論理療法という心理学ではこれを「自分に責任のない不幸」と呼びます。
論理療法とは、この「自分に責任のない不幸」から自己を解放しようというものです。
さて、昨日の続きの「不確実な点が残っていることに心配性の人が耐えられなくなる過程」は明日書きますね。
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