このシリーズは右のカテゴリー「和歌」に格納されています。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「八(や)たび歌よみに与ふる書」の続きです。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「八(や)たび歌よみに与ふる書」の続きです。
「物いはぬ よものけだもの すれだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ
では、拙首です。
の如き何もめずらしい趣向もないが、一気呵成のところはかえって真心をあらわして余りある。ついでに字余りの事をちょっと述べよう。この歌は 第五句字余りであるから面白い。ある人は字余りはしかたなないときにするものだというけれど、そうではない。字余りには大体三種類ある。第一は、字余りにしたために面白いもの、第二に、字余りにしたために悪いもの、第三に字余りにしなくてもいいものである。その中でも、この歌は字余りにした結果、面白くなっている。もし「思ふ」というのをつめて「もふ」などと行ってしまっては、興味は一気に失われる。この部分は必ず八字に詠まなければならない。この歌の最後の句のみに力を入れて「親の子を思ふ」とつめたのは情の切ないのを現すものである。もし「親の」の語を第四句に入れて、最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」などとしてしまっては、やさしい気持ちになってしまって、切なる情は出てこない。従って平凡な歌となってしまう。歌よみは古来の助詞を乱用してしまう。宋の時代の嘘の字をあてて弱い歌をつくることが一般的である。実朝は実に千人に一人の歌詠みである」
では、拙首です。
いにしへの 大和の心 これだけを 吾学びたし うるはしき国
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