誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 またあいてしまいました。ごめんなさい。もう少しなので、最後まで書き切りますね。

 東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・ マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。東條英機 は宣誓供述書130で、「部内統督の責」について語っています。

 つまり、東條英機はここで、日本軍は俘虜を粗末に扱ったことなどないと言い切っています。

 でも、自分たちの罪を消して、日本になすりつけたいアングロサクソンは、それを許しませんでした。バターン死の行進について、知らない方が多いのに驚かされます。では、もう少し詳しく見ていきましょう。前回は、少し時を戻して、マッカーサー親子がいかにひどかったかを解説しました。
 さて、赴任したダグラス・マッカーサーは本当にひどい将軍でした。ひどいというか無能と言った方がいいまもしれません。

 日本と戦争になった時のアメリカ軍の司令官はマッカーサーです。日本の何倍もの軍事力を保持しながら、マッカーサーは、戦局を支えることが出来ません。アメリカ軍はコレヒドール要塞に立てこもってしまいました。そして、どんどん、状況が不利になったマッカーサーは、なんと

部下を置き去りにして自分だけ逃げてしまったのです

 「I shall returm」か何か知りませんが、勝手な言葉をぬかして。残された部下たちは、餓死するか、マラリアなどの病気で死ぬしかありません。しかたがなく、日本軍に投降したのです。オランダ軍にしても、アメリカ軍にしても、すぐに降伏して捕虜になるから、日本はたまりません。アメリカが日本をいじめて物資を寄こさないので、貧しいから仕方がなく、戦争をしたのに、捕虜が増え過ぎで、自分たちの食べ物を分けざるを得ないのです。このときのアメリカ軍の投降数はなんと7万5千人ですよ!

 自分たちのなけなしの食料をわけました。輸送するトラックもないので、日本軍は、アメリカ兵士と一緒にマリベレスからサンフェルナンドということろまでの88キロを歩きました。

 マッカーサーは戦後、自分が逃げたことを隠すために、「粗末な食べ物を与え、88キロも歩かせた」と、自分の愚かさを日本の非道におきかえました。

 当時を知るフィリピンの画家、ダニエル・H・ディソンという人が、サンフェルナンドから鉄道に乗せられて移動してくる捕虜にアンヘレスというところで現地住民が食糧を与えている様子を著書に記しています。
「それぞれの車輛の屋根には銃剣を構えた日本兵が見張りに立っていたのですが、兵隊たちは食べ物が捕虜たちに与えられるのをただ見ているだけでした。列車の周りにいる人々は、大声を上げ、あるいは悲鳴をあげながら、水の入ったビンやビスケット、玉子、サトウキビ、バナナの葉でくるんだライスなどを次々に投げ入れていました。それを兵隊たちは何もせずに見ており、笑ってさえいたのです」


 捕虜を意図的に虐殺しようとしていたのであれば、このような光景はあり得ないでしょう。


  このバターン半島死の行進を、私の大好きなジャーナリストの笹幸恵さんが実際に歩いて検証しています。ウソが暴かれています。これには死の行進を強制されたという元アメリカ軍のレスター・テニーが抗議してきました。こいつは、自著「我が地 獄からの兵役」でこのように書いています。

 日本軍の拷問「板の上に大の字に寝かせ足を十センチ高くする。それで塩水を飲ませる」

 何か思い出しませんか? そうです、マッカーサーの親父が中心となって、アメリカ人がフィリピン人にやった拷問です(前回書きました)。日本人はこんなこと思いもつきません。

「竹をひも状にして親指を縛られぶら下げられた」

 これはゲーリー・クーパー主演の「海の魂」で海賊の拷問です。こんなことも、日本人には思いつきません。

「指の爪の間に竹ひごを突っ込まれ、そこに火をつけられた。」


 これもクーパーのなんとかという映画にあるそうです。

  テニーは、こうも言います。「水牛狩りを手伝わされ、日本兵が銃を貸してくれて狩をした。失敗して銃の台尻で殴られた」

 アホカ。捕虜に銃など渡すかい。

 日本軍は銃は天皇陛下からの頂き物という意識が非常に強くあったので、相手に銃を渡すぐらいなら死にます。


 正しいことを知りましょう。そして、もう一度、国家を創りましょう。

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このページは、宝徳 健が2012年4月30日 08:57に書いたブログ記事です。

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