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仕事というとどうしても処理(表現は悪いですが)する時間が優先されてしまいます。
仕事というとどうしても処理(表現は悪いですが)する時間が優先されてしまいます。
オリエンテーションという言葉があります。新入社員や新入生に職場や学校を紹介することだけではありません。
国語辞典で調べてみました。
①方位、方位測定、指標
②自己と新しい環境および過去との関係を正しく認識する精神作用。見当職。所在職。自己の位置づけ。
③新しい環境への適応・順応
④学校・会社などの組織で、新入者がそこでの生活・活動に速く適応できるようにはからうこと
とあります。
お医者さんが、手術で、方針を決めるのもオリエンテーションといいます。
仕事においても、方位を決める、自己を認識する。つまり、この仕事をどのような方向に導こうかと考える。
この考え方を決める時間を持つことはとても大切です。これさえ決まれば、資料を作ったりする作業的なことはすぐにできます。
またオリエンテーションの時間は、電車に乗っているときも、風呂に入っているときもいつでもできます(常にメモ紙が必要ですが)。
この数日間、考えてばかりいました。この時間の大切さを改めて認識しました。感謝合掌。
拙首です。
欽明天皇が、香具山に登られたときの御製です。
大和には、群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
(現代語訳)
大和には、群山があるが、とくに良い。 天の香具山に登り立ち、国見をすると、広々とした平野には、かまどの煙があちこちから立ち上がっている。広々とした水面には、かもめが盛んに飛び立っている。ほんとうに結構な国だ(あきづ島) 大和の国は。
※あきづしま(蜻蛉島)
①倭国の異称。蜻島・秋津嶋。②やまと(大和・倭)に掛かる枕詞。①は大和をあきづ島と呼ぶ理由として、雄略記に次のような伝承がある。ある時、天皇が吉 野へ狩りに行き、腰掛けに座っていると、虻が来て腕に食いついた。そこにトンボが来て虻を喰い、飛び去った。それで天皇は「手のこむらに虻が取りついて、 その虻を蜻蛉(あきづ)が早速に喰らい、こうして蜻蛉を名に顕そうとした。それで、そらみつ大和の国を蜻蛉島というのだ」のように歌ったので、ここを阿岐 豆野(あきづの)というと伝える。これは地名起源伝承であるが、歌の内容からは吉野の一地名である阿岐豆野が元にあり、それが大和全体を示すあきづ島へと 展開したことが知られる。蜻蛉を地名に付けたのは、蜻蛉にある種の呪力があったからであろう。あきづは奈良県吉野の宮滝付近に秋津があり、その名の連想か ら蜻蛉が導かれたと考えられる。また、蜻蛉は秋に群れをなして空を飛ぶことから、その繁殖力への信仰が存在したと考えられる。②は万葉集では枕詞として機 能し、舒明天皇が香具山に登り、国見をした時の歌に「うまし国そ あきづ(蜻)島 大和の国は」(1-2)と見える。天皇が天の香具山に登り国見をする と、国原には煙が立ち海原には鴎が飛び交い、すばらしい国だ、蜻蛉の島である大和の国はと歌う。この蜻島は枕詞であるが、枕詞本来の呪言の働きをもってい る。国見は古来より王の行う春の予祝の行事であった。以後に詠まれる蜻蛉島も、長歌謡に「蜻島倭之国」(13-3250)「秋津嶋倭」(13-3333) と見え、恋愛に関する叙事歌である。一方、万葉末期の大伴家持は「蜻島山跡国」(20-4465)と倭国の始まりに立ち返り、大伴氏の歴史を歌う。あきづ 島の語が吉野を起源とする神事歌謡に現れたのは、古く吉野も王権の要衝の地であったといえる。あきづ島の語が儀礼歌や叙事歌に生きていたのは、国の起源へ と回帰するところにあった。(ネットで検索)
国語辞典で調べてみました。
①方位、方位測定、指標
②自己と新しい環境および過去との関係を正しく認識する精神作用。見当職。所在職。自己の位置づけ。
③新しい環境への適応・順応
④学校・会社などの組織で、新入者がそこでの生活・活動に速く適応できるようにはからうこと
とあります。
お医者さんが、手術で、方針を決めるのもオリエンテーションといいます。
仕事においても、方位を決める、自己を認識する。つまり、この仕事をどのような方向に導こうかと考える。
この考え方を決める時間を持つことはとても大切です。これさえ決まれば、資料を作ったりする作業的なことはすぐにできます。
またオリエンテーションの時間は、電車に乗っているときも、風呂に入っているときもいつでもできます(常にメモ紙が必要ですが)。
この数日間、考えてばかりいました。この時間の大切さを改めて認識しました。感謝合掌。
拙首です。
考えて 考えてまた 考えて 考え抜くこと その大切さ
万葉集の続きです。
欽明天皇が、香具山に登られたときの御製です。
大和には、群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
(現代語訳)
大和には、群山があるが、とくに良い。 天の香具山に登り立ち、国見をすると、広々とした平野には、かまどの煙があちこちから立ち上がっている。広々とした水面には、かもめが盛んに飛び立っている。ほんとうに結構な国だ(あきづ島) 大和の国は。
※あきづしま(蜻蛉島)
①倭国の異称。蜻島・秋津嶋。②やまと(大和・倭)に掛かる枕詞。①は大和をあきづ島と呼ぶ理由として、雄略記に次のような伝承がある。ある時、天皇が吉 野へ狩りに行き、腰掛けに座っていると、虻が来て腕に食いついた。そこにトンボが来て虻を喰い、飛び去った。それで天皇は「手のこむらに虻が取りついて、 その虻を蜻蛉(あきづ)が早速に喰らい、こうして蜻蛉を名に顕そうとした。それで、そらみつ大和の国を蜻蛉島というのだ」のように歌ったので、ここを阿岐 豆野(あきづの)というと伝える。これは地名起源伝承であるが、歌の内容からは吉野の一地名である阿岐豆野が元にあり、それが大和全体を示すあきづ島へと 展開したことが知られる。蜻蛉を地名に付けたのは、蜻蛉にある種の呪力があったからであろう。あきづは奈良県吉野の宮滝付近に秋津があり、その名の連想か ら蜻蛉が導かれたと考えられる。また、蜻蛉は秋に群れをなして空を飛ぶことから、その繁殖力への信仰が存在したと考えられる。②は万葉集では枕詞として機 能し、舒明天皇が香具山に登り、国見をした時の歌に「うまし国そ あきづ(蜻)島 大和の国は」(1-2)と見える。天皇が天の香具山に登り国見をする と、国原には煙が立ち海原には鴎が飛び交い、すばらしい国だ、蜻蛉の島である大和の国はと歌う。この蜻島は枕詞であるが、枕詞本来の呪言の働きをもってい る。国見は古来より王の行う春の予祝の行事であった。以後に詠まれる蜻蛉島も、長歌謡に「蜻島倭之国」(13-3250)「秋津嶋倭」(13-3333) と見え、恋愛に関する叙事歌である。一方、万葉末期の大伴家持は「蜻島山跡国」(20-4465)と倭国の始まりに立ち返り、大伴氏の歴史を歌う。あきづ 島の語が吉野を起源とする神事歌謡に現れたのは、古く吉野も王権の要衝の地であったといえる。あきづ島の語が儀礼歌や叙事歌に生きていたのは、国の起源へ と回帰するところにあった。(ネットで検索)
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