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法隆寺の件は以前、書きました。京都・奈良といろいろなお寺がありますが、私は法隆寺が一番大好きです。
法隆寺は、西暦六百七年に聖徳太子によって建立され、六百七十年に落雷を受けて焼失し、その後再建されたというのがかつての定説でした。
法隆寺の件は以前、書きました。京都・奈良といろいろなお寺がありますが、私は法隆寺が一番大好きです。
法隆寺は、西暦六百七年に聖徳太子によって建立され、六百七十年に落雷を受けて焼失し、その後再建されたというのがかつての定説でした。
ところが、数年前、あのすばらしい五重塔の心柱(しんばしら)の伐採年代が、年輪年代法で明らかになりました。すると、その心柱は五百九十四年に伐採されたものだと測定されました。
ねっ! おかしいでしょ? 完全に焼失して再建されたのなら、百年近く前に伐採した木を使ったことになります。消失はしたのでしょうが、一部ではなかったかと学会で論争が起きています。
伽藍も若草伽藍も最初からあって、焼失したのは若草伽藍だけだったとか・・・。
五百九十四年といったら、聖徳太子が推古天皇の摂政をなられて間もないころです。としたら、摂政としての初事業として聖徳太子が建立を志して木を切ったとか・・・。
そんなこんなの内容が「万葉の大和路 中西進著」にたくさん載っています。
将来、仕事が落ち着いたら、この本を持って、万葉集の場所をテクテク歩きたいなあ。誰も付き合ってくれないだろうけど(笑)。 大好きな旅に出たい・・・。
いにしへの 香りが残る 万葉の みちみち歩く 旅を夢見て
万葉集の歌を紹介します。
我が背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草(かや)なくは 小松が下(もと)の 草を刈らさね
「わが君よ、仮の庵をお作りになる萱がないなら、あのコマツの根元の草をお刈りなさい」
日常のように和歌が詠まれていた頃の日本の国に少しの間でもいいから行ってみたい。きっととても美しいのでしょうね。風景も人の心も。
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