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私は、生れてからほんの数年前まで、頭痛というものを経験したことがありませんでした。
私は、生れてからほんの数年前まで、頭痛というものを経験したことがありませんでした。
ほんの数年前から、風邪を引いたりしたら、頭部がいた~くなるので、「あれっ? これなんだろう?」と思っていました。 風邪を引いても、ほんのたま~にですが、もしかしたら脳に欠陥があるのかも・・・。
ということで、病院にいきました。MRIを受けて、自分の脳の写真を観ました。なんときれいな脳なんだろう(笑)。 まったく異常はありません。
っで、先生に症状を説明しました。
先生「それは、頭痛です」
宝徳「あ~、これが頭痛ですか?」
先生「はい」
宝徳「私は、今まで、頭痛というものにかかったことがないんです。あ~、これが頭痛ですか~」
先生「・・・・・・・・」
先生は、きっと笑いをこらえていたことだと思います。年をとるといろいろあるのですね。でも、なんで、五十余年起きなかったことが、今、起きるんだろう。 ほんのたまに、たいした痛みではありませんが。 まっ、風邪を引いたら、誰でも頭が痛くなるか~。
田植えが終わりましたね。日本の国が最も美しい時期です。でも、私たちの子供のころは、田んぼはもっと生活の身近なところにありました。桑の木など、あぜ道には、もっといろいろなものがあった記憶があります。ため池の水門が開かれると、子供たちはいっせいに田んぼに行き、一緒に流れてくる魚をとりました。すっぽんには近づいてはだめだと、近所のお兄ちゃんに教えてもらいました。蛇イチゴもだめだと。近所のお兄ちゃんに教えてもらったことを、家に帰って、親に得意げに話しました。 おたまじゃくしもとったなあ。田螺も。
今は、人が作ったデジタルゲームで遊んでいるんだものなあ。自然からどんどん離れ、そして、人が作ったもので遊ぶので、独創性がなくなっていきます。日本がどんどん壊れていきます。デジタルは人の脳を壊します。時刻表を読み込む楽しさなんて、知らない人がたくさんいるんだろうなあ。勝手にデジタルが路線を教えてくれるから。つまらない世の中になったものです。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「人々に答ふ」の続きです。
この歌は、普通の歌のように思えるが、私は、嫌味を感じる。この歌の作意は、三、四の句にあるが、その三、四の句が嫌味を感じているところである。垣の隙があらいといって、忍び音を漏らすわけがあるはずもない。それを両者相関しているかのごとく言っているのは、しゃれでしかない。言葉のしゃれで歌を詠むと、趣がまったくなくなる。
ということで、病院にいきました。MRIを受けて、自分の脳の写真を観ました。なんときれいな脳なんだろう(笑)。 まったく異常はありません。
っで、先生に症状を説明しました。
先生「それは、頭痛です」
宝徳「あ~、これが頭痛ですか?」
先生「はい」
宝徳「私は、今まで、頭痛というものにかかったことがないんです。あ~、これが頭痛ですか~」
先生「・・・・・・・・」
先生は、きっと笑いをこらえていたことだと思います。年をとるといろいろあるのですね。でも、なんで、五十余年起きなかったことが、今、起きるんだろう。 ほんのたまに、たいした痛みではありませんが。 まっ、風邪を引いたら、誰でも頭が痛くなるか~。
白鷺が 遊ぶ青田を 眺めながら あぜの寂しさ ふと考える
田植えが終わりましたね。日本の国が最も美しい時期です。でも、私たちの子供のころは、田んぼはもっと生活の身近なところにありました。桑の木など、あぜ道には、もっといろいろなものがあった記憶があります。ため池の水門が開かれると、子供たちはいっせいに田んぼに行き、一緒に流れてくる魚をとりました。すっぽんには近づいてはだめだと、近所のお兄ちゃんに教えてもらいました。蛇イチゴもだめだと。近所のお兄ちゃんに教えてもらったことを、家に帰って、親に得意げに話しました。 おたまじゃくしもとったなあ。田螺も。
今は、人が作ったデジタルゲームで遊んでいるんだものなあ。自然からどんどん離れ、そして、人が作ったもので遊ぶので、独創性がなくなっていきます。日本がどんどん壊れていきます。デジタルは人の脳を壊します。時刻表を読み込む楽しさなんて、知らない人がたくさんいるんだろうなあ。勝手にデジタルが路線を教えてくれるから。つまらない世の中になったものです。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」を現代語訳しています。「人々に答ふ」の続きです。
山里は 卯の花垣の ひまをあらみ しのび音(ね)もらす 時鳥(ほととぎす)かな
この歌は、普通の歌のように思えるが、私は、嫌味を感じる。この歌の作意は、三、四の句にあるが、その三、四の句が嫌味を感じているところである。垣の隙があらいといって、忍び音を漏らすわけがあるはずもない。それを両者相関しているかのごとく言っているのは、しゃれでしかない。言葉のしゃれで歌を詠むと、趣がまったくなくなる。
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