古代の歌の意味

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 三日連続で申し上げますが、白川静先生の「詩経」が面白くてたまりません。へー、ほー、すごいとうなりながら読んでいます。今日は、古代の歌とは、神を脅すためにあったことを紹介します。
 神様は普通にお願いしても祈りを聞き入れてくれません。昨日「訴ふ」が「歌」の語源だと申し上げました。歌は神を責め訴えるものだったのです。祝詞とはそのようなものだそうです。神は普通にやっていてはその願いを聞き入れないので、今の圧力団体のように多少は畏迫(いはく)する行為も必要だと古代の人は考えていました。
 つまり目に見えぬ神を動かすには、激情的な表現が必要でした。だからその発声は日常の言葉と違って、特殊な抑揚を加え、リズムをつけて、荘厳でなければなりませんでした。

 「毆」とう字があります。「おう」と読みますが、意味は「なぐる」です。「謳(うたう)」と語源が一緒です。納得ですね。神の徳を囃し立て、訴えることが「歌」だったのです。

 現代の歌謡曲などまったくダメです。

 古典を読み古代の事を知るたびに、古く遅れたものではなく、生きていく上の真理であり新しいもの(こと)であることに気づきます。それも、孔子以前の古典、呂氏春秋や詩経に触れると。素晴らしですね。子供のころからこういう教育が必要です。必要なのは表音文字である英語を小学校から学ぶことではありません。

まこともて あたらしきこと たずぬるは 古きことがら 学ぶことから

 シリーズで掲載している正岡子規の「歌よみに与ふる書」の現代語訳です。「人々に答ふ」の続きです。

一むらの 杉の梢(こずえ)に 山見えて 月よりひびく 滝の音かな

 上三句は、あたりまえの言葉であるけれど、印象が明瞭である。惜しいのは、上三句と四、五句がつながっていない。山は杉林よりへだたっているように見えてします。滝が遠いのか誓いのかもわからない。「月より響く」などと言わなければよかったのに。この作者は工夫を凝らしすぎてかえって、嫌味になってしまうところがある。この作者は、滝は見ずして音ばかり聞いているから、月中に響きがあるような表現をしてしまった。これ嫌味なのだ。もし、目の前に見えている滝の下に立って見上げた時、月が見えたとして詠んだら、素晴らしい歌になっていただろう。

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このページは、宝徳 健が2012年6月24日 07:10に書いたブログ記事です。

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