この日誌は右のカテゴリー「ひよこクラブ」に格納されています。
今日、七月十日は母の命日です。平成七年七月十日。享年六十二歳。
そしてわが社の創立記念日です。平成十三年七月十日。丸十一年。明日から十二年目に入ります。
支えていただいた関係者の方々には心よりお礼申し上げます。まだまだ未熟者です。今後共ご指導いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
今日、七月十日は母の命日です。平成七年七月十日。享年六十二歳。
そしてわが社の創立記念日です。平成十三年七月十日。丸十一年。明日から十二年目に入ります。
支えていただいた関係者の方々には心よりお礼申し上げます。まだまだ未熟者です。今後共ご指導いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
先ほど、金子みすずさんのことを書きましたが、私の母もまさに、自分の幸せを削り、家族の幸せを優先した人でした。「いったいお母さんは、いつ寝てるんだろう」「お母さんは、何を楽しみに生きているんだろう」と子供の頃ずっと思っていました。いつか「お母さんは何が楽しいの?」と聞いたら「あなたたちよ」と答えました。昔の日本女性はこうだったのですね。だから、世界一美しい人たちでした。
母が亡くなった時、遺品を整理していたら、湯呑みとか櫛とか身の回りのものなど、ほんのわずかしか残っていませんでした。形見分けなどするものがありません。それでも私は母の使っていた湯呑みをいただきました。自分の洋服なんてギリギリまで買う人ではありません。まず家族のものです。
姉が父に怒りました。「着物のひとつもなぜ買ってあげなかったの!」
父はさびしい顔をしていました。仕方がないのです。父か使えるのは自分の小遣いだけ。どんなに父が偉くても怖くても、家の中の事は母がすべて取り仕切ります。父は権力ですが、母は権威です。今の日本の家は、権力も権威も母が持っています。だからダメ。
母が亡くなってお通夜の時、線香の火がとぎれないように、父と私で線香の番をしました。父が一言「何の非の打ちどころもないお母さんだったなあ、健」と。「あ~、この人は本当に母を愛したのだな」と思いました。
お葬式の時、父が「秋武(母の実家)の父母には、実の息子以上に大切にしてもらいました。なのに、今回、とんでもないことをしてしまいました。みなさん許してください」と涙を流しながら言いました。私は、父がこんなことを言うのかとびっくりしました。姉は「あの一言で、パパ(と姉と妹は呼びます)を許せた」と。
三十歳半ばから病気になり、入退院を繰り返しました。関節は、ほとんどが人工関節です。筆舌に尽くしがたい痛さと苦しさだったでしょう。朝、目が覚めたら、「ああ、また今日も苦痛の日が始まる」と思った事でしょう。
でも、「痛い」とか「苦しい」とかを言ったことがない人でした。それどころか、動けなくなるのはいやだと言って、家事や買い物は、本当に動けなくなるギリギリまで一人でやっていました。手伝おうとすると「あなたは、男でしょ!これは私の仕事!あなたには他にやることがあるはずです!」と言います。
まあ、楽しかったから、買い物はしょっちゅう一緒に行きましたけど。
もう、本当に動けなくなる前に、一緒にお寿司を食べに行きました。指が動かないので、箸がうまくもてません。お寿司を半分に切ってもらい、ガリに醤油を付けて食べるようにすすめました。「あ~、こういう食べ方なら私も食べられるね。ありがとう。健と食べに来ると楽しいわ」と言いました。楽しい母とのデートでした。
親戚の人は、みんな、母が私にはとても厳しい人だったと言います。確かに外では、「日本人の男」としての行動を求められました。でも、家の中や二人の時は、とても優しい人でした。「お国のためになる男になるのよ」と言っていました(笑)。
母の教えの第一は、「負けてはいけない」です。生きていたら苦しいことはたくさんある。勝つことよりも負けないことを学びなさい、ということでしょう。まさに母の人生そのものです。
二番目が「人を羨んではいけない」です。我が家は私が小学校にあがるぐらいから、とても貧しい経済状態でした。私は靴下と下着が二着しかありませんでした。でも、父と母の必死の努力でひもじい思いをしたことはありません。自分が貧しいと思ったこともありません。ある時、母が、ボロボロの体なのに「働きに出る」と言い出しました。「なぜ?」と聞くと「あなたたちに、満足におやつぐらい食べさせてあげたい」と。兄弟みんなで「おやつなんていらない」と止めました。
私は自分のおやつが貧しいと思ったことなどありません。それ以上に、すべて手作りの母のおやつにはとても満足していました。「人を羨んではいけない」は、母の必死の訴えだったのでしょう。それと、人の事を考えるぐらいなら、自分の足元を見なさいということでしょう。
三番目が「可能性をあきらめてはいけない」です。あの、極限の身体状態でも、自分が回復することを願っていたのかな。
私は、絵や字が下手だったのですが、それについて母は「あなたは字や絵がへたね」と言ったことは一度もありません。「今はそうかもしれないけど、きっと上手になるわよ」って。今の自分の状態で未来の可能性を否定するなという教えです。
あ~あ、まだ教えを全然守っていないや。ちゃんと出来るようにならないと、きっと、天国に行っても会ってくれませんね。そういうことには厳しい人でしたから(笑)。なんせ、喧嘩で負けて帰って来たら「お母さんは、そんな弱い子に産んだ覚えはありません。もう一度やってきなさい。勝つまで帰ってきてはダメです」というぐらいですから(笑)。 今だったら「そんな事業の状態で、天国に来てはいけません。もう一度現世にもどってやりなおしなさい」でしょうか(笑)。
さてと、12年目に入るか。
<自己の成長>
①私は毎朝、朝のおつとめをします(皇居遥拝、宗像大社遥拝、神棚拝礼)〇7/9
②私は毎朝、3つの唱和をします(般若心経、教育勅語、大祓詞)〇7/9
手紙 150通以上 28通
読書 10冊以上 3冊
新規提案 20社以上 6個
新ビジネスモデルづくり10個以上 1個
士魂商才六月号
【毎週やること】
次週計画・今週検証(毎週木曜日近辺にやります)
7月8日:〇
【行動規範:八戒】
いつも最悪の事態を想定せよ
そして、今日一日の最良の行動をとれ
自分のことばかりしゃべるな
自分以外の人に強い興味を持て(ただし、必要以上に期待をかけるな、過去の出来事のこだわるな)
自分の馬鹿加減を常に思い出せ
人から受けた恩は忘れるな
人へ施した恩はすぐに忘れろ
小さな仕事こそ丁寧にやれ
母が亡くなった時、遺品を整理していたら、湯呑みとか櫛とか身の回りのものなど、ほんのわずかしか残っていませんでした。形見分けなどするものがありません。それでも私は母の使っていた湯呑みをいただきました。自分の洋服なんてギリギリまで買う人ではありません。まず家族のものです。
姉が父に怒りました。「着物のひとつもなぜ買ってあげなかったの!」
父はさびしい顔をしていました。仕方がないのです。父か使えるのは自分の小遣いだけ。どんなに父が偉くても怖くても、家の中の事は母がすべて取り仕切ります。父は権力ですが、母は権威です。今の日本の家は、権力も権威も母が持っています。だからダメ。
母が亡くなってお通夜の時、線香の火がとぎれないように、父と私で線香の番をしました。父が一言「何の非の打ちどころもないお母さんだったなあ、健」と。「あ~、この人は本当に母を愛したのだな」と思いました。
お葬式の時、父が「秋武(母の実家)の父母には、実の息子以上に大切にしてもらいました。なのに、今回、とんでもないことをしてしまいました。みなさん許してください」と涙を流しながら言いました。私は、父がこんなことを言うのかとびっくりしました。姉は「あの一言で、パパ(と姉と妹は呼びます)を許せた」と。
三十歳半ばから病気になり、入退院を繰り返しました。関節は、ほとんどが人工関節です。筆舌に尽くしがたい痛さと苦しさだったでしょう。朝、目が覚めたら、「ああ、また今日も苦痛の日が始まる」と思った事でしょう。
でも、「痛い」とか「苦しい」とかを言ったことがない人でした。それどころか、動けなくなるのはいやだと言って、家事や買い物は、本当に動けなくなるギリギリまで一人でやっていました。手伝おうとすると「あなたは、男でしょ!これは私の仕事!あなたには他にやることがあるはずです!」と言います。
まあ、楽しかったから、買い物はしょっちゅう一緒に行きましたけど。
もう、本当に動けなくなる前に、一緒にお寿司を食べに行きました。指が動かないので、箸がうまくもてません。お寿司を半分に切ってもらい、ガリに醤油を付けて食べるようにすすめました。「あ~、こういう食べ方なら私も食べられるね。ありがとう。健と食べに来ると楽しいわ」と言いました。楽しい母とのデートでした。
親戚の人は、みんな、母が私にはとても厳しい人だったと言います。確かに外では、「日本人の男」としての行動を求められました。でも、家の中や二人の時は、とても優しい人でした。「お国のためになる男になるのよ」と言っていました(笑)。
母の教えの第一は、「負けてはいけない」です。生きていたら苦しいことはたくさんある。勝つことよりも負けないことを学びなさい、ということでしょう。まさに母の人生そのものです。
二番目が「人を羨んではいけない」です。我が家は私が小学校にあがるぐらいから、とても貧しい経済状態でした。私は靴下と下着が二着しかありませんでした。でも、父と母の必死の努力でひもじい思いをしたことはありません。自分が貧しいと思ったこともありません。ある時、母が、ボロボロの体なのに「働きに出る」と言い出しました。「なぜ?」と聞くと「あなたたちに、満足におやつぐらい食べさせてあげたい」と。兄弟みんなで「おやつなんていらない」と止めました。
私は自分のおやつが貧しいと思ったことなどありません。それ以上に、すべて手作りの母のおやつにはとても満足していました。「人を羨んではいけない」は、母の必死の訴えだったのでしょう。それと、人の事を考えるぐらいなら、自分の足元を見なさいということでしょう。
三番目が「可能性をあきらめてはいけない」です。あの、極限の身体状態でも、自分が回復することを願っていたのかな。
私は、絵や字が下手だったのですが、それについて母は「あなたは字や絵がへたね」と言ったことは一度もありません。「今はそうかもしれないけど、きっと上手になるわよ」って。今の自分の状態で未来の可能性を否定するなという教えです。
あ~あ、まだ教えを全然守っていないや。ちゃんと出来るようにならないと、きっと、天国に行っても会ってくれませんね。そういうことには厳しい人でしたから(笑)。なんせ、喧嘩で負けて帰って来たら「お母さんは、そんな弱い子に産んだ覚えはありません。もう一度やってきなさい。勝つまで帰ってきてはダメです」というぐらいですから(笑)。 今だったら「そんな事業の状態で、天国に来てはいけません。もう一度現世にもどってやりなおしなさい」でしょうか(笑)。
さてと、12年目に入るか。
この母の 思いがこもる おしへうけ 今の一歩を ここに歩まん
【7月9日の食事】
朝ごはん:野菜菜ジュース
昼ごはん:おにぎり二個とお茶 電車の中で食べました
夜ごはん:LIFEで串カツとさつま揚げと巻きずし(二個)を買って食べた
<自己の成長>
①私は毎朝、朝のおつとめをします(皇居遥拝、宗像大社遥拝、神棚拝礼)〇7/9
②私は毎朝、3つの唱和をします(般若心経、教育勅語、大祓詞)〇7/9
③私は毎朝、新しい暗唱を少しずつします(今は、大学と終戦の詔書を完璧に覚える)×4/9
<仕事の実現>
④私は毎日、新しいビジネスモデル構想を1つノートに書きだします(完成ではない)×5/9
⑤私は毎日、未決管理表を詳細に読み込みます〇8/9
⑥私は毎日、全クライアントのことを3分以上考えます〇9/9
⑦私は毎日、5年間の夢、1年間の夢を3分以上眺めます〇9/9
⑧私は毎日、10分以上次の事業づくりの勉強をします〇4/9
(53/72 73.6%)
手紙 150通以上 28通
読書 10冊以上 3冊
新規提案 20社以上 6個
新ビジネスモデルづくり10個以上 1個
士魂商才六月号
【毎週やること】
次週計画・今週検証(毎週木曜日近辺にやります)
7月8日:〇
【行動規範:八戒】
いつも最悪の事態を想定せよ
そして、今日一日の最良の行動をとれ
自分のことばかりしゃべるな
自分以外の人に強い興味を持て(ただし、必要以上に期待をかけるな、過去の出来事のこだわるな)
自分の馬鹿加減を常に思い出せ
人から受けた恩は忘れるな
人へ施した恩はすぐに忘れろ
小さな仕事こそ丁寧にやれ
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