いろはにほへと

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 「いろはにほへと」の解説をします。
いとはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん

色は匂へど 散りぬるを
 香り欲色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう(諸行無常)

我が世誰そ 常ならむ
 この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない(是生滅法:ぜしょうめっぽう)

有為の奥山 今日越えて
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて(生滅滅己:しょうめつめつい)

浅き夢見じ 酔ひもせず
悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である(寂滅為楽:じゃくめついらく)

 子供にこんなことを教えてわかるのかとおっしゃる方がいらっしゃいます。古典もそうです。「教える」という発想がそもそも間違っています。子供をなめています。そんなことを考えずに、意味も伝えずに、何千年何百年と生き続けてきた古典などに触れさせると、子供は素直に吸収します。そして、人生のいろいろな苦難に出遭ったとき、体に刷り込まれたその内容が表出してきて自らを救います。
 私たちはすぐに、「これはどういう意味か」「それをやって意味があるのか」「何か良いことがあるのか」と考えます。「意味があるかないか」「良いことがあるかないか」という相対の発想をします。
 この相対の発想が苦しみを生みます。人間の苦しみのほとんどは比較という「相対」から始まります。絶対もだめです。「シナケレバナラナイ」「ベキダ」というネバネバ感と心が凍る感が生じます。

 では、どうすればいいか。キーワードは止揚です。アウフヘーベンです。

 このことは古典を読まなければ理解できません。子供の内から寺子屋で古典を読んでいた日本があったからこそ、明治の苦難を乗り切ることができました。今の私たちがいかに過っているかがわかります。

今知ろう 今こそ知ろう 古きから すたれず続く いにしへのこと

 古典は古いのではありません。私たちが古いのです。次の日には、次に瞬間には、もう古くなっている生き方をしているのは私たちです。何千年何百年と続いた古典は、新しい人に読まれた瞬間に新しくなります。

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このページは、宝徳 健が2012年8月 7日 05:33に書いたブログ記事です。

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