八釼神社

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 昨日、ブログで知り合った深田さんと、深田さんのお住まいのある木更津で会いました。食事をして二次会の素敵なバー(また紹介します)に行く途中、少し道に迷いました。
 するとそこに八釼神社がありました。祭神は日本武尊です。

 迷ったおかげで出逢えた神社です。天が二人を導いたのですね。

八幡さま

 小さな神社なのですが、調べてみるとこの神社はすごいですね。神社のHPから紹介します。昨日、このブログで書いたことも載っています。

(以下、神社のHPから)
日本武尊(ヤマトタケル)が東国征伐したときのことです。走水から船で上総(現在の千葉県)に渡ろうとした時、海上で嵐 に襲われますが、このとき日本武尊(ヤマトタケル)の妻である弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に身を投じることで嵐を静めました。このことにより、一行は 無事に上総に渡る事ができましたが、日本武尊(ヤマトタケル)はこの地に暫らく留まり弟橘姫(オトタチバナヒメ)のことを思って歌を詠みました。「君さら ず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」 この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」という地名となったと伝えられています。八剱八幡神社には、妻を想い、留まった場 所として、日本武尊(ヤマトタケル)が祀られています。
社殿は、源頼朝が鎌倉幕府を開府したおりに寄進された、といわれております。

 

源頼朝「お手植えの蘇鉄(そてつ)」

八剱八幡神社

 

昔、源頼朝が君津市草牛(そうぎゅう)の森家で兵馬の疲れを癒し、そこを離れる際、森家へのお礼として、頼朝が蘇鉄を植えたという言い伝えがあります。
大正15年、当時の(株)木更津銀行頭取露崎銀平氏が、森家からこの蘇鉄を譲り受け、八剱八幡神社へ奉納し、現在に至っております。

 

「嶺田楓江寿碑(みねだふうこう じゅひ)」(市指定文化財

八剱八幡神社

 

嶺田楓江は、江戸時代後期の1818年生まれ。儒学や蘭学を学び、各地を遊学しました。1843年には、現在の北海道を踏査して、江戸幕府に屯田制 (とんでんせい)や、北方警備の必要性を訴え、「海外新話」を書きました。しかし、治安を乱したとして、江戸から追放され、当時の請西村(現在の木更津市 請西)に移り住みました。
後に当地で地元子弟の教育に専念したことから、1881年(明治14年)に長寿とその業績をたたえた寿碑が建立されました。
この碑は、文を重城保が撰し、題字を英国領事館コラウブスが、書を清国の劉世安が記したという、全国でも珍しい碑です。
 

 

「八剱八幡神社の格天井(ごうてんじょう)装飾画」(市指定文化財

八幡さま

 

八剱八幡神社の拝殿の天井には、狩野派の技法で「風景」、「花鳥」、「動物」等の装飾画が162枚描かれており、18世紀の作品と考えられています。
※「格天井(ごうてんじょう)装飾画」は、社務所の都合により、ご覧いただけない場合がございます。あらかじめご了承願います。

 

「五大力船絵馬(ごだいりきせん えま)」(市指定文化財

八剱八幡神社

五大力船は、江戸時代から明治時代にかけて、木更津と江戸の間の輸送を行った大型帆船で、徳川幕府より特権を与えられていました。
絵馬には、当時の東京湾を疾走していた五大力船の姿が、写実的に描かれています。
大きさは、縦51.8cm、横85.4cmで、明治時代初期頃の制作と考えられています。


友と出逢ひ 神と出逢ひて つながるは 天と人との 國の成り立ち
(これは私の和歌です)

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このページは、宝徳 健が2012年10月17日 03:35に書いたブログ記事です。

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