藤原宮子

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 まだ藤原宮子が完成していませんでした。
 
 子供を産んだ後、鬱になってしまった藤原宮子でした。
 いろいろな記録に残っている宮子ですが、その実態を知る人は少なくなっています。これも子供を産んだ後病気をして、表舞台から去ったからでしょう。

 こんな事実を知っていたら、昔、和歌山県御坊市に行ったときに、もっと楽しめたと思います。歴史は知らないと生きていて面白くないですね。

 宮子は、三十六年間たって病気が治癒しました。そして、その長い年月を経て、息子と対面します。息子は、聖武天皇です。感慨深かったことでしょう。

 対面したのは、海龍王寺です。ここには行ったことがありません。奈良市内ですね~。二月に仕事で近くに行きます。これは行かないと。知りませんでした。

 



    十一面観音菩薩立像

<海龍王寺の歴史と由来 海龍王寺HPより>
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建されました。嵐の中唐より無事に帰国 を果たした玄昉が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄昉が唐より持ち帰った経典の書 写(写経)も盛んに行われました。
平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退していきましたが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の 大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34箇寺に選ばれました。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響 を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどります。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受け ることとなり、本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たしますが、明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大き な打撃を受けます。
昭和28年に松本重信が特任住職として海龍王寺に入寺。かっては、貞治4年(1365)第13代信尊和尚、康暦元年(1379)第15代興泉和尚、長禄元 年(1457)第28代元澄和尚、天文7年(1538)光淳和尚、明和3年(1766)高瑜和尚 と、海龍王寺から五名の西大寺を長老を輩出しており、真 言律宗の中でも筆頭格の寺院であった輝きを取り戻すべく自身の手で復興を始め、昭和40~42年には「西金堂」「経蔵」の解体修理をはじめ「国宝・五重小 塔の返還、西金堂への安置」、本堂の修理及び伽藍の復興に心血を注いだゆえに、現在の海龍王寺の姿があります。
隅寺という呼び名の由来については、江戸時代に書かれた大和名勝誌にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されています。


 素敵なお寺です。(藤原宮子 おわり)

地を離れ たっとき方の 子をなして 宮子が思ひ いたるは何か

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このページは、宝徳 健が2013年1月 4日 23:58に書いたブログ記事です。

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