この記事は右のカテゴリー「和歌」に格納されています。
白鳳の貴公子と呼ばれる仏頭の続きです。この仏頭の数奇な運命をご紹介します。
白鳳の貴公子と呼ばれる仏頭の続きです。この仏頭の数奇な運命をご紹介します。
仏頭は天平十四年(685年)、今の奈良県桜井にあった山田寺の本尊として作られました。寺の開祖は蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂です。中学校の歴史の教科書に出てきた人です。
石川麻呂は讒訴(ざんそ)により謀反の疑いありとされて自害しました。後に無実とわかります。悲運の石川麻呂ゆかりの仏像がなぜ、興福寺に移り、東金堂の本尊になったのでしょうか?
東金堂はたびたび火災に遭い、再建されてきましたが、治承四年(1180年)に兵火で全焼した後、お堂は造営できましたが、仏像の再興には難渋しました。そのころ、東金堂に法相の教えを学び、修行に励む「学侶」と呼ばれる僧侶他に、「堂衆」と呼ばれる一種の僧兵がいました。本尊がなかなか安置できないことに業を煮やした堂衆たちが白羽の矢を立てたのが、山田寺の薬師如来像でした。山田寺を納める門跡と興福寺の間に何か遺恨があったことも手伝って、よその寺の本尊を運び込むという荒技を敢行したのでした。
そんな顛末で興福寺にやってきた気位の高い像は、多くの人々の信仰を集めました。そお宝物が奇跡的に焼け残って仏頭となりました。やがて歴史から消え去り、そして五百年の時を経てよみがえったのです。
ねっ! すごいでしょう??? すごいすごい。世界で唯一歴史が継続した國 日本。世界最古の國 日本だからこそできることです。
こんな事実に触れると、感動でふるえがとまらなくなります。
人々の 前から姿 消しし時 仏は何を 見つめ続けた
コメントする