体罰?の思い出(笑)

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 今朝7時からの大阪中小企業診断士会の会議に行くために事務所を出たら雪でした。大阪の雪は珍しいですね~。たまには良いものです。

 「体罰」という言葉だけが独り歩きしています。問題は教える側の正義感です。私の出身中学はとんでもない不良中学校でした。卒業式のお礼参りも当たり前でした。でも、堂々として正しいことを言う先生には殴られても、不良たちも絶対に反撃をしませんでした。納得していました。

 ときには鉄拳制裁が必要な時もあります。

 でも、私にはこんな理不尽な経験があります。
 小学校三年生の一学期終了間際に父の仕事の都合で大阪から静岡県駿東郡裾野町(現裾野市)に転校しました。一学期の終業式だけ出て夏休みに突入。だから友達が誰もいない夏休みでした。同年代の子供が遊んでいる仲間に加わろうとしても「仲間に入れて」という方言が分からなくて話しかけることができませんでした。大阪では「よせて」ですが、通じなかったらどうしようかと考えたからです。後でわかったことですが、その地方では「かてて」です。

 二学期が始まりました。友達ができたのでうれしくてしかたがありませんでした。昼休みに同じクラスの友達と縄跳び遊びをしていました。私が縄を回す番の時のことです。隣のクラスの子が担任の先生と鬼ごっこをしていました。その先生は若くてとてもきれいな方でした。

 鬼に追い掛け回されていたその先生が、私の方に逃げてきて私の体を柱のように支えにしてくるっとまわりました。かなり強い力でしたので、私は倒れてしまい、縄跳びの縄が回せなくなり、みんなが飛べなくなってしまいました。ちょっと頭にきた私は小声で「なんだよ」と言いました。それがその若くてきれいな先生に聞こえたのです。じゃじゃ~ん。

 するとその若くてきれいな先生の顔が鬼のようになり、私の胸ぐらを捕まえました。次に両手で私を往復びんたし始めました。私にはいったい何が起きたかわかりません。ただ殴られるばかりです。

 悔しくて悔しくて殴られながら睨みつけました。何発殴られたでしょうか? 何発目かにその先生が「謝れ!」と言いました。「なんで?」と思いながらも、どうしても自分が悪いとは思えないので謝りませんでした。睨み続けました。「謝れ!」となんども叫びながら先生は私を殴り続けました。女の先生ですので、指輪がはめてあります。その指輪で私のほほは切れました。

 「謝れ!」。その言葉に悔しくてうっとおしくて、涙が出てきました。「もういいや」と思いながら「ごめんなさい」というと「もっと大きな声で言え!」。一度だけ言いました「ごめんなさい」。すると今後は、「わかったか!」と言いながら、もう数発殴りました。

 悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。でも当時は家で「先生に殴られた」などと言おうものなら父母から「お前が悪い」とまた殴られます(笑)。

 今思い出しても腹が立ちます。

 後日談があります。私はもうその先生の顔を見るのも嫌になり、廊下ですれ違う時も顔を伏せました。ある日、私は体調を崩して体育の授業を休み見学をしていました。もう一人見学の子がいました。

 合同授業かなにかだったので、手が空いていたその先生がもう一人の子に近づいて「宝徳君を誘って、三人でボール蹴りをしない?」と言いました。私はその先生が嫌いでしたから遠くに離れていました。その子が来て、先生がそう言っていることを私に告げました。私は即座に「嫌だ」と断りました。その子は先生にそれを告げに行きました。その後、先生がさびしそうに一人でボールを蹴っていたので少し悪かったかなあと思いました。

 その子が「なんや宝徳、せっかく〇〇先生(名前ははっきりと覚えています)が誘ってくれたのに」と言いました。不思議なものです。45年近く経った今でも色つきでシーンまでよみがえってきます。

 う~ん、あの事件からか~。私の周りには怖い女性ばかり集まるようになったのは~。

今ここに 遠い思い出 よみがへる 良いか悪いか 今もわからぬ

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このページは、宝徳 健が2013年2月 8日 09:22に書いたブログ記事です。

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