このブログの過去記事を検索できない方々のためにご要望が多かった記事から再掲しています。右のカテゴリー「宝徳 健」に格納されています。
2011年12月1日掲載記事です。
2011年12月1日掲載記事です。
1983年2月に親友のYTJと行った、支那への個人旅行を振り返っています。「よく、28年前のことを覚えているね」と何人かの方々から言われますが、覚えていないところは覚えていないのですが、鮮明に右脳に残っていることも多々あります。
悪いところをベールに包んだ社会を見せられる団体旅行とは違い、個人旅行ですから、支那の生活習慣や社会風俗がよくわかると思います。
西安市内から、秦の始皇帝の墓である兵馬俑(へばよう)へバスで向かいました。 いつものごとくです。バスを待っているときは、YTJと私の二人しかいないのですが、いざバスが来ると、どこに隠れていたの? と思うぐらい、人が沸い てきます。すごくたくさんの人が。とにかく、支那は、どこに行っても、人だけはたくさんいます。それと、自転車が道にあふれています。当時はまだ車も少な かったのですが、その少ない車さえ走ることができないぐらい、道を占領しながら、まさに「大量」の自転車がのったりと走っています。
日本に帰ってしばらくは、自転車に乗るのも見るものいやでした。
バスでご老人が乗ってきたので、また反射的に席を譲りました。またまた、周りの人たちがびっくりしてこちらを見ます。「こいつは、自分の権利を放棄して、馬鹿か」というような顔で。
バスの窓から外を眺めていました。一軒の家を作っていました。その作り方たるや・・・。
レンガを下に敷地分一段敷きます。その上に、おそらくセメントを塗って、もう一段積んで、二段にします。三段・四段・・・。基礎もありません。柱もありま せん。そうやって家を作っていきます。どの地域に行っても同じでした。昨日紹介した写真のような家ができます。地震が来たら、一発でつぶれますね。帰りの バスから同じ家を見たとき、ほとんどできていました。
二人は無言で、その家を見ていました。
さあ、秦の始皇帝の墓である兵馬俑(へばよう)に着きました。
悪いところをベールに包んだ社会を見せられる団体旅行とは違い、個人旅行ですから、支那の生活習慣や社会風俗がよくわかると思います。
西安市内から、秦の始皇帝の墓である兵馬俑(へばよう)へバスで向かいました。 いつものごとくです。バスを待っているときは、YTJと私の二人しかいないのですが、いざバスが来ると、どこに隠れていたの? と思うぐらい、人が沸い てきます。すごくたくさんの人が。とにかく、支那は、どこに行っても、人だけはたくさんいます。それと、自転車が道にあふれています。当時はまだ車も少な かったのですが、その少ない車さえ走ることができないぐらい、道を占領しながら、まさに「大量」の自転車がのったりと走っています。
日本に帰ってしばらくは、自転車に乗るのも見るものいやでした。
バスでご老人が乗ってきたので、また反射的に席を譲りました。またまた、周りの人たちがびっくりしてこちらを見ます。「こいつは、自分の権利を放棄して、馬鹿か」というような顔で。
バスの窓から外を眺めていました。一軒の家を作っていました。その作り方たるや・・・。
レンガを下に敷地分一段敷きます。その上に、おそらくセメントを塗って、もう一段積んで、二段にします。三段・四段・・・。基礎もありません。柱もありま せん。そうやって家を作っていきます。どの地域に行っても同じでした。昨日紹介した写真のような家ができます。地震が来たら、一発でつぶれますね。帰りの バスから同じ家を見たとき、ほとんどできていました。
二人は無言で、その家を見ていました。
さあ、秦の始皇帝の墓である兵馬俑(へばよう)に着きました。
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