吉野の盟約 最終回

| コメント(0) | トラックバック(0)
 この記事は右のカテゴリー「和歌」に格納されています。

 書けば書くほど吉野に行ってみたくなってきた。日本各地にはまだまだ旅をするところがたくさんあります。大好きな本をたくさん持って旅をする。旅先でおいしいものを食べる。旅先からお世話になった方々に手紙を書く。私の人生の最終章では、そんな生き方をしたい。

 さて、天武天皇にとって、吉野は、山深く風光明媚な景勝地ではなく、鉄壁の山の守りに囲まれながら情報を入手しやすく、移動にも適した「城」でした。
 皇后時代の持統天皇もこの逃避行に同行しています。

 吉野とは、天武天皇と持統天皇にとってすべての出発点であり、原点となる特別な場所でした。持統天皇が天武天皇亡きあとも吉野へと行幸を重ねたのは、夫と過ごした激動の時期を回想するためなのでしょう。

 このシリーズを書き始めた時、吉野の盟約は、天武天皇が息子たちに結束を誓わせたものであると申し上げました。

 しかし、天武天皇の死後、大津皇子が謀反の疑いで捕えられて自害させられました。それを告発したのは、吉野の盟約に参加していた河嶋皇子でした。後に、大津皇子の謀反は無実だったと判明します。

 なんと、吉野の盟約に参加した六人の皇子は、誰一人として天皇に即位することが出来なかったのです。だから、持統天皇が皇后でありながら即位することとなりました。

 天武天皇系の天皇は100年も経ずに絶えてしまいました。兄の天智天皇系へと皇統が移り、今に至っています。

 吉野の盟約とはいったいなんだったのでしょうか?

世の中で はかなきものは 多々あれど もっともはかなき 人の約束 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/4456

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2013年3月 8日 05:14に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「脚下照顧(三月六日の日誌)」です。

次のブログ記事は「メディアと官僚と政治家とアメリカと支那に騙されない経済学」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。