再 支那紀行

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 2011年12月11日掲載分です。
 1983年2月に親友のYTJと、当時無理だと言われていた、支那への個人旅行をした思い出を綴っています。

 西安から北京に移動します。
 確か朝9時か9時半ごろの飛行機に乗る予定でした。いつも、時間ぎりぎりにしか行動しないYTJと早め早めに行動する私の、いさかいを乗り越えて、9時前に飛行場に着きました。

 搭乗手続きをすませると「時間まで待て」という係員の指示がありました。

 9時半になっても、搭乗案内がありません。

  「どうなっているんだ」と係官に聞いても、「自分にはわからない」と答えます。支那はいつでもこうでした。責任逃れ発言ばかりです。ショップで買い物をし ていても、「商談をする人」「売る人」「お金のやり取りをする人」が分かれていて、絶対に他人の領域に入りません。別の領域の質問をすると「自分にはわか らない」です。

 11時になりました。「今日は飛ぶのか」と聞くと「自分にはわからない」。14時になりました。「どうなっているんだ」「自分にはわからない」。

 支那の2月というのはとてつもなく寒いのです。私は、モモヒキというのをはじめてはきました。シャツも2枚着ました。暖房ですって? そんな気の利いたものが当時の支那にあるはずがありません。

 14時半になりました。堪忍袋の緒が切れました。「責任者を出せ!」。支那人との交渉は絶対に強気に出なくてはなりません。強い奴には逆らわないのが支那です。「どうなっているんだ!」「いいかげんにしろ!」。すると係官が答えました。「今日は飛ばない」

「・・・・・」

 一度チェックアウトしたホテルに戻るしかありません。つづく。

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このページは、宝徳 健が2013年3月11日 07:54に書いたブログ記事です。

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