再 支那紀行

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 このブログの過去記事が検索できない方のために要望の高いものから再掲してます。まずは、1983年2月に親友のYTJと一緒に行った支那紀行です。

 2011年12月23日掲載分です。
 万里の長城から北京市内に帰ってきました。その日は確か外の屋台で食べました。

 まだ盧溝橋にも、天壇公園にも、紫禁城にも行きたいのですが、なんとビザがあと2日で切れてしまいます。
「宝徳、ビザが切れるでー」
「ほな、わしら、不法入国者になるんかい」
「あほ、明日、イミグレーションオフィスに行くで~」

 2週間のビザを取得していたので、この日で12日目だったのですね。

 私は海外旅行は初めてですし、もちろん、イミグレーションオフィスなんて行ったことはありません。

  次の日イミグレーションオフィスに行きました。YTJが流暢な英語で、役人と話して、ビザは延長されました。途中、支那の役人が私たち日本人に戦争責任の話をふっかけてきました。YTJは、日本の歴史はほとんど知らない、自虐的歴史観を持っていますので、相手の言うことにうなずいていました。私は、英語は彼のように流暢に話せませんが、当時は聞くことは出来ました。ある程度の会話も。

 ビザ延長の手続きをした後、役人に、「もう少し正しい歴史を勉強するように」と言いました。YTJは青くなりました。でも、支那の役人は、うなづきました。そうなんです。堂々と主張しなきゃ。

 さて、確か10日間の延長だったと思います。これでしばらく安心してあちこち廻れます。

 次の日は盧溝橋に行くことにしました。モスクワコミンテルンに策謀にひっかかり、日本が支那事変の泥沼に引き込まれていってしまった場所です。 つづく。

紫禁城です。
shikinjou1.jpg

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このページは、宝徳 健が2013年3月17日 07:51に書いたブログ記事です。

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