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日本武尊を裏切った息長氏ですが、娘を后として送り込むことでヤマト王権の北陸進出を手助けしようとしたのでしょうか?
ところが、息長氏は再び裏切っています。今度は、その娘とその子を・・・。
日本武尊を裏切った息長氏ですが、娘を后として送り込むことでヤマト王権の北陸進出を手助けしようとしたのでしょうか?
ところが、息長氏は再び裏切っています。今度は、その娘とその子を・・・。
琵琶湖周辺は政治的な要素にあふれています。また、情緒にもあふれています。私は滋賀県と岐阜県が大好きです。岐阜県も同様に政治的な要素、情緒にあふれています。
でも、共通するのが、両県の県民があまり自分の県のことを知りません。残念です(笑)。
以前述べましたが、神功皇后は朝鮮に出兵しています。異国の地での長い戦いを終えて、戦いが終わった後にすぐに生まれた子(後の応神天皇)を抱いて都を目指した神功皇后を待っていたのは義理の息子である忍熊王(おしくまおう)たちの反逆でした。
忍熊王たちは凱旋する義母が産んだ弟に帝位を奪われることを恐れました。
反乱軍は、播磨(兵庫県明石市)で、母子を待ち受け「東国から兵」を集めました。ところが戦闘前に首謀者の皇子の一人が事故死したため、難波の住吉に軍を退きました。
神功皇后は反乱を知り、瀬戸内海を東進する主力と四国に南を迂回する搦め手の二手に軍勢を分けて、反乱軍を攻めました。反乱軍は宇治へ撤退しました。
神功皇后は都へ入り、朝廷を掌握し、翌月、数万という大軍を動員して反乱軍の壊滅に着手しました。兵力の差はすでに大きなものでした。
忍熊王はボロボロになりながら宇治川を上り近江を目指しました。しかし追撃はやまず、ついに琵琶湖のほとりの瀬田の渡しで身を投げて死にました。
その年の冬に、ヤマトの群臣たちは神功皇后に「皇太后」の尊称を与え、神功皇后は幼い応神天皇を補佐する「摂政」となりました(日本書紀)。
ここで不可解なのは、反乱軍が東国の兵を集めたことと、撤退した忍熊王があえて神功皇后の父親たちがいる近江に撤退したことです。そうです、息長氏は反乱軍に手を貸したのです。
う~ん、面白いな~。歴史を知ると、その地を訪れるのがまた楽しみになります。この息長氏のなぞは少し研究してみる余地がありそうですね。
天皇家は、地方を征服したことはありません。平定しています。征服ならやさしい。すべてぶち殺せばいいからです。平定は大変です。こんなしんどい思いをしてながら、天皇家は統治していったのですね。神功皇后の功績はとても大きいのですが、戦後、歴史から消されました。左翼によって。
正しい歴史を否定する者は、歴史によって裁かる日が来るでしょう。
秘められた 古代の動きを 知りながら 近江の国の 謎解き明かす
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