前回の続きです。
1900年六月十九日、清國政府から各国公使館に対して「支那の全國民は、激昂しているから政府としては各國の居留民は保護しきれない。よって二十四時間以内に天津へ退去せよ」という無責任な要求を突き付けてきました。
1900年六月十九日、清國政府から各国公使館に対して「支那の全國民は、激昂しているから政府としては各國の居留民は保護しきれない。よって二十四時間以内に天津へ退去せよ」という無責任な要求を突き付けてきました。
しかし、移動手段を持たない中、この無法地帯と化した北京城外に出られるわけがありません。明らかに無理と知っての要求でした。各國公使館がそれを拒否すると、なんとなんと、清國正規軍が公使館に攻撃を仕掛けてきたのでした。
清國政府の万國に対する宣戦布告です。清國政府は、義和団を「愛國良民の義挙」と見なし、支持したのでした。こういうのを暗愚といいます。
各國は、武器弾薬、食糧が欠乏する中、約二か月に及ぶ熾烈な籠城戦を開始したのでした。
この絶体絶命のピンチを救い、そして、各國からその動きを絶賛されたのが、我が國軍でした。つづく。
清國政府の万國に対する宣戦布告です。清國政府は、義和団を「愛國良民の義挙」と見なし、支持したのでした。こういうのを暗愚といいます。
各國は、武器弾薬、食糧が欠乏する中、約二か月に及ぶ熾烈な籠城戦を開始したのでした。
この絶体絶命のピンチを救い、そして、各國からその動きを絶賛されたのが、我が國軍でした。つづく。
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