源義経をかくまった奥州藤原氏の話はなんとも壮大でロマンティックで知れば知るほどほれぼれとします。「炎立つ」という高橋克彦氏の小説があります。これもドキドキしながら観ていました。たしかNHKでもやっていました。
でも、私は、なぜ欧州に藤原氏がいたのだろうかとずっと考えてきました。
でも、私は、なぜ欧州に藤原氏がいたのだろうかとずっと考えてきました。
藤原氏はもちろん貴族のトップです。始祖は大化の改新の中臣鎌足です。でも、安倍氏、大伴氏、蘇我氏、物部氏などの古墳時代に遡る貴族と比べるとその歴史が浅いのも事実です。
私の疑問をJR東海月刊誌「ひととき」五月号が解消してくれました。この本は実にすばらしい。毎号感動してしまいます。ひとときでは、藤原氏栄華の背景には東北があったとしています。編集しながら紹介していきます。
鎌足の子である不比等は、藤原一族をのし上げた人でした。不比等は娘を文武天皇と結婚させ、後の聖武天皇を産ませました。さらに娘の光明子(こうみょうし)を聖武天皇と結婚させ皇后にしました。天皇家と二重の婚姻関係を結び、天皇の外戚となることで権力を得ました。
でも、この時の不比等の最高の位は右大臣です。右大臣は位が低いのです。
西洋では右は「ライト(正義)」です。左が「スニスタ(凶)」です。ですから、右に位置する方が位が高い。支那でも、右大臣は左大臣よりも位が高い。でも、我が國だけは、左大臣の方が右大臣よりも位が高いのです。左大臣は最高位です。なぜか。
伊邪那岐命が黄泉の國で、追いかけられた伊邪那美と地獄の鬼たちから逃れたとき禊をします。左眼を洗ったときに天照大御神が、右眼を洗ったときに月読命が、鼻を洗ったときに建速素戔嗚命の三貴子が産まれます。天照大御神が左眼から生まれたので我が國は右よりも左の方が尊重されます。
「右」は武器を持ち、人を殺める手です。平和を愛する我が國は、だから左を尊重します。古事記という民族の神話で私たちの祖先は、「平和」を遺言としました(だからと言って非武装中立などという愚論は認めていない)。神話を馬鹿にしては行けません。このように、深い深い意味が込められています。
左大臣ではなく、右大臣である不比等は、あまり高い地位ではありませんでした。二人の娘を皇后とし、外戚となって盤石な基盤を創ったように見えますが、この位をみてもわかるように、奈良時代では、まだまだ藤原氏は「なりあがり」でしかありませんでした。
では、どうやって藤原氏は地位を築いていったか・・・。つづく。
私の疑問をJR東海月刊誌「ひととき」五月号が解消してくれました。この本は実にすばらしい。毎号感動してしまいます。ひとときでは、藤原氏栄華の背景には東北があったとしています。編集しながら紹介していきます。
鎌足の子である不比等は、藤原一族をのし上げた人でした。不比等は娘を文武天皇と結婚させ、後の聖武天皇を産ませました。さらに娘の光明子(こうみょうし)を聖武天皇と結婚させ皇后にしました。天皇家と二重の婚姻関係を結び、天皇の外戚となることで権力を得ました。
でも、この時の不比等の最高の位は右大臣です。右大臣は位が低いのです。
西洋では右は「ライト(正義)」です。左が「スニスタ(凶)」です。ですから、右に位置する方が位が高い。支那でも、右大臣は左大臣よりも位が高い。でも、我が國だけは、左大臣の方が右大臣よりも位が高いのです。左大臣は最高位です。なぜか。
伊邪那岐命が黄泉の國で、追いかけられた伊邪那美と地獄の鬼たちから逃れたとき禊をします。左眼を洗ったときに天照大御神が、右眼を洗ったときに月読命が、鼻を洗ったときに建速素戔嗚命の三貴子が産まれます。天照大御神が左眼から生まれたので我が國は右よりも左の方が尊重されます。
「右」は武器を持ち、人を殺める手です。平和を愛する我が國は、だから左を尊重します。古事記という民族の神話で私たちの祖先は、「平和」を遺言としました(だからと言って非武装中立などという愚論は認めていない)。神話を馬鹿にしては行けません。このように、深い深い意味が込められています。
左大臣ではなく、右大臣である不比等は、あまり高い地位ではありませんでした。二人の娘を皇后とし、外戚となって盤石な基盤を創ったように見えますが、この位をみてもわかるように、奈良時代では、まだまだ藤原氏は「なりあがり」でしかありませんでした。
では、どうやって藤原氏は地位を築いていったか・・・。つづく。
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