遺跡調査によって全く予想外の遺跡が現われたのでした。
それは記録に一切登場しない「城塞都市」跡の出現でした。二〇〇〇に発見された遺跡の名前は「壇の越遺跡」です。多賀城から北西に三五キロほど離れた大生山脈のふもとの田園地帯、宮城県加美町にあります。今は水田が広がっているそうです。その下に年が眠っていたとは想像すらできません。
この「壇の越遺跡」は藤原四兄弟が活躍した奈良時代の中ごろの遺跡で、碁盤目状に東西南北に走る道できれいに区画された日本史上初めての「地方都市」でした。当時は多賀城にも大宰府にもへ状況のような碁盤目状の都市はまだ存在していませんでした。
奥羽連絡道路計画のトップが藤原麻呂ならば、当然、都市計画にも噛んでいたことでしょう。この年は、敵対する蝦夷たちに朝廷の威光を示し、道路建設に協力させるためとの説が有力視されています。突如現れた都市の効果もあってか、道は山脈を越えて出羽側まで通じていました。あとは北上して秋田城へとつながる道だけです。
しかし、この計画は頓挫しました。つづく
この「壇の越遺跡」は藤原四兄弟が活躍した奈良時代の中ごろの遺跡で、碁盤目状に東西南北に走る道できれいに区画された日本史上初めての「地方都市」でした。当時は多賀城にも大宰府にもへ状況のような碁盤目状の都市はまだ存在していませんでした。
奥羽連絡道路計画のトップが藤原麻呂ならば、当然、都市計画にも噛んでいたことでしょう。この年は、敵対する蝦夷たちに朝廷の威光を示し、道路建設に協力させるためとの説が有力視されています。突如現れた都市の効果もあってか、道は山脈を越えて出羽側まで通じていました。あとは北上して秋田城へとつながる道だけです。
しかし、この計画は頓挫しました。つづく
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