藤原氏の東北における大いなる計画がとん挫したところまででした。
なぜ頓挫したか。麻呂を始め四兄弟がこの年に相次いで都で流行した伝染病で死亡したからです。こうして幻の地方都市は、記録に一切名前を残さず地下へ潜り、なんと千年の眠りについたのです。
四兄弟の死によって政治のトップに躍り出たのが、皇族出身の橘諸兄(たちばなももろのえ)でした。普通に考えればそのまま立花一族が貴族のトップでありつづけたはずです。
でも、藤原氏はすぐに復活し、四兄弟の長男・武智麻呂の息子、藤原仲麻呂が立ち話から権力を奪取します。仲麻呂は自分の息子を東北へ派遣します。朝猟と言います。
いろいろあって、仲麻呂は反乱を起こして朝猟ともども刑死しますが、その後も藤原氏は東北へと一族を送り続けています。対蝦夷の重要地点付近には、今でも藤原氏と関係が深い鹿島神宮系の神社が点在しているのも、藤原氏の東北政策の反映といえるでしょう。
奈良時代を通じて、藤原氏が東北を重視していたのは、なにもない土地に都市を生みだし、険しい山脈を越える道を切り開けるほどの土地の力(黄金、稲、労働人口)があったためです。
一方で、それは東北が中央に頼らなくても自立できる経済を持っていたことも意味します。蝦夷たちが三八年もの間中央と戦い続けたことでも、そこのとがわかります。
奥州藤原氏はこうして基盤を確立していったのでした。
いにしへの みちのくにおける 國づくり 今もロマンを いぶきのこして
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