北清事変の真実5

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 よく「私は歴史が苦手だ」「國語が苦手だ」という人がいます。自覚症状がないのかもしれませんが、我が國を破壊している國民の一人だと思ってください。歴史と國語を、今の過った教育の「教科の一つ」ととらえている愚かな発言です。

 不況でも國は潰れません。戦争で敗けても國は潰れません。國民が國体と歴史と祖國語を疎かにした時に國は潰れます。今の、我が國は、國が潰れている状態です。先の発言をしている人たちは國を潰している人たちです。

 五月二十六日以来の「北清事変」の続きです。我が國がどれほど素晴らしい國であったかを知ってください。

 さあ、我が國を滅亡の危機から救った、柴五郎の登場です。
 北京籠城中、我が國軍を統率していたのが、公使館付武官、柴五郎中佐です。

 柴中佐は、会津藩士の五男に生まれ、十一歳の時に会津城が陥落しています。朝敵の子として苦労を重ねます。明治維新後、陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校(陸士)を経て近衛砲兵大隊の少尉となります。日清戦争の時は大本営にあって作戦に参画し、下関講和会議では末席に加わっています。その後、英國公使館付武官を経て、袁世凱の顧問となった青木宣純(のりずみ)の後を受けて、1900年に清國公使館付武官となりました。その時に義和団事件が起きました。

 我が軍が受け持った防御陣地の粛親王府は、日、英公使館に隣接する広大な建物でした。粛親王は開明的で、柴中佐の、「邸宅の利用懇請」を快諾しました。戦火をくぐってわざわざ粛親王を尋ねてきた几帳面な柴中佐に、支那人は驚いたそうです。

 その粛親王府は最大の激戦区になりました。柴中佐は、避難民を含む三千数百名の食糧の分配や傷病者の看病など、事細かに配慮する一方、先頭では自ら抜刀して敵陣に切り込み、武器弾薬を鹵獲して戻るなど、その勇猛さや優れた指揮官ぶりは、各國人の賞賛の的となりました。そして全籠城者の実質的な総指揮官となりました。

コロネル・シバ

の名は、世界にとどろきました。当時の功績により各國から勲章を授与され、英國王エドワード七世、イタリア皇帝エマヌエル、ロシア皇帝ニコライ二世、ペルー大統領、スペイン皇帝などにも謁見しています。しかし、柴中佐は回顧録において、自分の功績を伏せ、あるいは他者に譲るなど、実に謙虚そのものでした。これを「陰徳」と言います。今の私たちにはできない行いです。またまだ、柴中佐の話を次回以降続けます。

 かつての我が國國民は、なぜこんなに美しいのでしょうか? このことに現代日本人の何割が気づいているのでしょうか? 「今の世の中の方が進んでいる」「あの戦争は敗けてよかった」「民主主義や國民主権が最も素晴らしい」と考えている人がいたら、「自分は愚かな人間だ」と思ってくださって結構です。

 だって、私たちは、かつての日本人ほど美しくないもの。この事実だけでもこれを証明しています。

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このページは、宝徳 健が2013年6月 9日 09:06に書いたブログ記事です。

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