北清事変の真実7

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 北清事変時の我が國軍の素晴らしさを紹介します。
 北京陥落後、列国の軍隊が遅れて続々と到着する中、山縣有朋は公使館と居留民の救済を達成した以上、すみやかに派遣軍を半減するよう山口中将に命じました。十月中旬にはその半分が帰国しました。我が國は、すみやかな撤兵をみせることによって、列国の清侵略の野望を封じようとしたのでした。

 1901年6月、第五師団の残有部隊が帰国。山口中将が北京、天津を離れるにあたっては、列国は儀仗兵を出し、各国の司令官以下将校、外交官の盛大な見送りを受け、大沽では各国の軍艦から礼砲を受けています。

 北清事変で我が國軍が世界に絶賛されたのは、勇気や忠節、そして優れた戦術だけではありません。その軍紀の厳正さもまた列国群を驚かせ、支那人からも褒め称えられました。
 
 明治天皇は以下の勅語を出し、将兵は拳拳服膺していました。
「今回の清國の事変に際し、朕が陸海軍は列国軍と共に(中略)竟(つい)に北京に入て公使救済の目的を達成したり。朕深く其の勲労を嘉(よみ)す。将来益々勅諭の旨を体し、軍紀を重んじ風紀を厳かにし、奮励以て帝国軍隊の名誉を全うせんことを望む」

 山口中将も第五師団の出陣指揮にあたり、以下訓示しています。
「世界のどの軍隊よりも、日本軍が武勇、軍紀あらゆる点において優れていることを示せ。列強監視の中で武士道精神を発揮し、堂々たる態度を示すことが君國に報いる道であり、三国干渉の無念を晴らす道である」

 次回は、この素晴らしい我が國軍のエピソードと、他國軍隊のひどさを紹介します。

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このページは、宝徳 健が2013年6月16日 06:21に書いたブログ記事です。

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