今日は、亡くなった母の誕生日です。そういえば、IKさんの奥様も今日がお誕生日ですね。おめでとうございます。
母は平成七年七月十日に亡くなりました。享年六十二歳。何度もこのブログで書いていますが、繰り返し書くことをお許しください。
母は平成七年七月十日に亡くなりました。享年六十二歳。何度もこのブログで書いていますが、繰り返し書くことをお許しください。
三十代の半ばから、全身リューマチになりました。あちらこちらを傷め、亡くなるときは、ほとんどが人工関節でした。でも、リューマチで亡くなったのではありません。医療ミスです(このことはまた後日)。
親戚の人達は「お母さんは、健ちゃんには厳しかったね~」と口をそろえて言いますが、私にはその感覚がありません。唯一の男の子だったので、男子として育てる母の義務があったのかもしれません。確かに男子教育は母から受けました。でも、私の心の中に住んでいる母は、たまらなく優しい人です。
記憶にはありませんが、先日も書いたように、私は、泣かずに生まれてきました。だからとても体が弱かったそうです。父も母も「この子は大人まで生きられないだろう」と思っていたそうです。いつも、ビービー泣いて母のスカートを引っ張っていたそうです。
弱かった私です。外で喧嘩をしたら敗けます。泣いて家に帰ったら「お母さんは、そんな弱い子を産んだ覚えはありません。もう一度行ってらっしゃい。勝つまで家に帰ってきてはダメです」と言いました。
年上のやんちゃ坊主があいてだったので、ものすごく怖かったことを今でも覚えています。必死になって向かっていきました。「戦う」ということを教えてもらいました。
姉に男の子が生まれた時、母が姉に言いました。「男の子は、その日のうちに生きて帰ってくればそれでいい」。後で、姉からこの話を聞いて「なるほど」と思うことがたくさん思い出されました。
福岡県遠賀郡芦屋小学校六年生の時です。中学一年の学年番長(古い言葉ですね:笑)、O君に逆らってしましました。便所に連れて行かれて十数人に取り囲まれました。もう、やられ放題です。怖かった、怖かった。今日は生きて帰れないだろうなと思いました。
顔がボコボコになりました。家に帰りました。母「どうしたの?」私「階段で転んだ」母「そうなの?」
んなわけありませが、それ以上は聞きませんでした。私も喧嘩で負けて家に帰るなど、こんな恥ずかしいことはないので、それ以上言いませんでした。父が帰ってきました。何も言いません。
心配だったでしょうね~。でも、これが昭和一桁生まれの人の男子に対する教育です。有名大学の柔道部でちょっと殴られて大騒ぎするような人間は日本男児ではありません。
入院して亡くなる前、二人でよくデートをしました。お寿司屋さんに連れて行ったとき、「私は、こんな手(握力が0)だから、うまく食べられないの。お醤油がうまくつけられないの」と母が言いました。板前さんに頼んで、握りずしを半分に切ってもらいました。ガリを醤油に浸してそれを握りずしに塗って食べる方法を教えました。「あ~、おいしい。こんな食べ方があるのなら、またお寿司を食べに来たいわ。健と来ると楽しいわ」と言ってくれました。
夜寝ているとき、母はトイレに行こうとしてベッドから落ちました。そのはずみで、リューマチでもろくなっている足を骨折しました。ちょうど、私が泊まりに行っていたときです。痛いという言葉をほとんど使ったことがない母が「痛い、痛い。ねえ、治るよね。治るよね」と。
そうです、骨折で入院したのに、亡くなったのです。医療ミスです。
意識がある最期をみたのは、私と妹です。病院に行ったらブルブル体を震わせ、呼吸困難に陥っています。その苦しい中私を手招きで呼びました。「仕事が忙しいのに、いつも来てくれてありがとう」。
医師が私を別室に呼びました。医「これこれこういう方法をやれば楽になります」私「じゃあ、どうしてそれをやらずに放っておいたのですか?」医「ご家族の承認が必要です」私「あなたは、患者の命を何と思っているのですか!それにいざという時に私の携帯番号を伝えているはずです」医「やるのですか?やらないのですか?」。当時血の気が多かった私が、よく我慢したものです。母はそのまま集中治療室に行って帰らぬ人となりました。都立大塚病院です。
妹がどうしても納得できず「訴えたりしないから、真相を教えてほしい」と何度も手紙を出しました。帰ってきたのは紋切り型の内容ばかりです。それも、担当医師ではなく、院長からでした。担当医師は、亡くなってから一度も顔を見ていません。霊安室にも来ませんでした。辯護士にしても医師にしてもそうですが、國家のお墨付きをもらった資格には、「仕事を見て人と観ない」人がたくさんいます。
自分の事よりもいつも他人の事でした。亡くなったとき、遺品を整理していたら、自分の物はほとんど何もありませんでした。姉が父に言いました。「なんで、着物の一つも買ってあげなかったの!」。買ってあげると言っても自分の物を買う母ではありません。
亡くなる直前は集中治療室でした。父と交代で、ICUの外のソファーで寝泊まりしました。
これも亡くなる前の病院での出来事です。日章丸事件の時に、暗号電文を打ち続けたタイピスト秋武汎子(旧姓)です。日章丸事件で勇気づけられた國民は、出光本社にたくさんの激励電文や手紙をくれました。それをコピーして持っていきました。「私の人生も役に立ったのね」と嬉しそうな顔をしました。
お母さん、私を生んでくれて心から感謝します。力を尽くして人の役に立てる人間になれるよう精進してまいります。誕生日と命日とお彼岸には必ずお祈りしているからね。いつも心の中にいるからね。子供の頃に言われていた「お國のためになる人間」になるからね。
たらちねの 母の教へを 抱きつつ 己の未熟 振り返りつつ
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