天の算籌

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 佐藤一斎先生の「言志四録」からです。

「人の受くる所の気は、其の厚薄(こうはく)の分数、大抵(たいてい)相若(あいに)たり。軀(く)の大小、寿の脩短(しゅうたん)、力の強弱、心の智愚(ちぐ)の如き、大(おおい)に相遠ざかる者無し。其の間に一処の厚きを受くる者有れば、皆之を非常と謂う。非常なるは則(すなわ)ち姑(しばら)く之を置く。就(すなわ)ち常人の如きは、軀(く)と寿と力の分数、之を奈何(いかん)ともすべからず。独り心の智愚に至りては以て学んで之を変化す可(べ)し。故に博学、審問、慎思、明弁、篤行(じっこう)、人之を一たび十たびすれば、己れ之を百たび千たびす。果たして此の道を能(よ)くすれば、愚なりと雖も必ず明かに、柔なりと雖も必ず強く、以て漸く非情の壱岐に進む可し。蓋し此の理(ことわり)有り。但だ常人は多く遊惰にして然する能(あた)わず。豈に亦天に算籌(さんちゅう)有るか」
「人が天から受けるところの気(条件)は、その厚いと薄いとに分けられている分量は大体同じようなものである。身体の大小、寿命の長短、力の強弱、心の賢愚といったものは誰でも大きな差があるわけではない。其の間に、特に一点厚いところを授けられた者があれば、人々はみな、これを非凡という。この非凡な者はしばらく問題の外に置いておこう。すなわち普通一般の人にあっては、身体の大きさや寿命の長さや力の強さの分け前はどうすることも出来ない。ただ心の賢さや愚かさについては、学問によって変えることができる。だから中庸に「博く学び、審(つまび)らかに問い、慎んで考え、明らかに弁明し、誠実に実行する。人がこれを一回するなら自分は百回行い、人がこれを十回するなら自分は千回行う。このうようにこの方法を励行すれば、必ず結果は良くなり、少しずつでも非凡の域に近づくことが出来る」誠にこれは道理に適っていると言える。ただ普通の人は遊び怠けてしまい、努力を続けることが出来ないのである。これには何か天の算段があるものであろうか」

 わかっちゃいるんですけど・・・・・。

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このページは、宝徳 健が2013年10月 7日 05:29に書いたブログ記事です。

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