復性の學

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 佐藤一斎先生の「言志四録」からです。

「惻隠の心も偏すれば、民或は愛に溺れて身を殞(おと)す者有り。羞悪(しゅうお)の心も偏すれば、民或は自ら溝瀆(こうどく)に経(くび)るる者有り。辞譲の心も偏すれば、民或は奔亡(ほんぼう)して風狂するる者有り。是非の心も偏すれば、民或は兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぎ、父子相訟うる者有り。凡そ情の偏するは、四端と雖も、遂に不善に陥る。故に學んで以て中和を致し、過不及(かふきゅう)無きに帰す。これを復性の學と謂う」
「憐れみ痛む惻隠の心も、偏りすぎると、民衆の中には愛情に溺れて身を亡ぼす者も出てくる。不義を恥じて憎む羞悪の心も、偏りすぎると、民衆の中には自ら溝を中で首をくくって死んでしまう者も出てくる。自ら辞して他に譲る辞譲の心も、偏りすぎると民衆の中には逃げ隠れて頭が変になってしまう者も出てくる。善悪を判断する是非の心も、偏りすぎると、民衆の中には、兄弟げんかをしたり、親子で互いに訴訟を起こすような者も出てくる。このように感情が一方に偏ると、孟子の言う四徳(惻隠、羞悪、辞譲、是非)のきざしまでが、遂にはよくないことになってしまう。それゆえに、學問をして性情を中正にし、行きすぎや不足のないようにするのである。これを本性に帰する復性の學というのである」

 これも良い言葉ですね~。

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このページは、宝徳 健が2013年10月27日 05:57に書いたブログ記事です。

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