前回、光明皇后が厨子に「楽毅(がっき)論」を納められたことを申し上げました。
史記で読む楽毅はとても素晴らしい男です。支那には、たまに、素晴らしい人間が現われるのですが、長続きしません。殺されるか拷問を受けるか失脚するかです。残念なことです。
史記で読む楽毅はとても素晴らしい男です。支那には、たまに、素晴らしい人間が現われるのですが、長続きしません。殺されるか拷問を受けるか失脚するかです。残念なことです。
楽毅とは、戦国時代の将軍です。
燕の昭大生は、人材を求めていました。その時、召し抱えたのが楽毅です。昭王は、楽毅の際の才能に着目し、 高い地位に付けます。
楽器を召し抱える少し前、燕は、斉に攻め込まれて(騙されもした)滅びかけました。当時、太子として辛酸をなめた昭王は斉に対して強い恨みを抱いていました。天下から人材を募りました。郭隗(かくかい)という重臣に「どうしたら人材が集まるか」と聞いたところ、郭隗は、「まず、私からはじめてください。私程度の人間を大切に扱ったとなると、私など及びもつかない有能な人材が集まってきます」と言いました。昭王は郭隗を優遇しました。天下から有能な人材が集まりました。「隗よりはじめよ」の語源です。
その時に集まってきた一人が楽毅です。
楽毅は、昭王の恩に報いるため、才能をフルに発揮し、ついには、斉を亡ぼしかけました。しかし、その途中、昭王は、亡くなってしまうのです。
跡を継いだ燕の恵王は、とても愚かで、部下に「このままでは楽毅が國を乗っ取る」と言われ、疑心暗鬼にかられ、楽毅を葬り去ろうとしました。それを知った楽毅は、他國に亡命しました。
恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と楽毅が亡命した事を責める書を送りました。楽毅はこれに 「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、その自分を重 用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書きました。恵王はこの書によって誤解を解き、楽毅の息子を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠としました。この「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」は古今の名文と呼ばれ、諸葛亮孔明の「出師表」とならんで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われました。
燕の昭大生は、人材を求めていました。その時、召し抱えたのが楽毅です。昭王は、楽毅の際の才能に着目し、 高い地位に付けます。
楽器を召し抱える少し前、燕は、斉に攻め込まれて(騙されもした)滅びかけました。当時、太子として辛酸をなめた昭王は斉に対して強い恨みを抱いていました。天下から人材を募りました。郭隗(かくかい)という重臣に「どうしたら人材が集まるか」と聞いたところ、郭隗は、「まず、私からはじめてください。私程度の人間を大切に扱ったとなると、私など及びもつかない有能な人材が集まってきます」と言いました。昭王は郭隗を優遇しました。天下から有能な人材が集まりました。「隗よりはじめよ」の語源です。
その時に集まってきた一人が楽毅です。
楽毅は、昭王の恩に報いるため、才能をフルに発揮し、ついには、斉を亡ぼしかけました。しかし、その途中、昭王は、亡くなってしまうのです。
跡を継いだ燕の恵王は、とても愚かで、部下に「このままでは楽毅が國を乗っ取る」と言われ、疑心暗鬼にかられ、楽毅を葬り去ろうとしました。それを知った楽毅は、他國に亡命しました。
恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と楽毅が亡命した事を責める書を送りました。楽毅はこれに 「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、その自分を重 用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書きました。恵王はこの書によって誤解を解き、楽毅の息子を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠としました。この「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」は古今の名文と呼ばれ、諸葛亮孔明の「出師表」とならんで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われました。
楽毅はその後趙と燕との両方優遇され、両国を行き来し、最後は趙で没しました。
光明皇后はすごいですね。この時代にもう史記を読まれています。
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