本日、十一月一日は、古典の日です。
我が國國民が、古典を読まなくなってしまいました。悲しいことです。哀しいことです。
何とその言い訳が「読みにくい」「難しい」「苦手」と「古典の責任」にしていることです。びっくりします。古典の責任にするのではなく、読解力を磨かない自分の責任なのに、古典の責任にしているなんて。そして、この考え方が、歴史や文明や文化を分断している恐ろしい所業であることに気づいていません。罪深い人たちです。
荷物が重たいのではない。荷物を持つ力がない。同様に古典が難しいのではない。読む力をつけようとしていないからです。
そのくせ、悪魔のような人類破壊兵器であるITに必要以上にのめり込んだり、歌謡曲を覚えたり、くだらないTVドラマを観たりしています。人間社会破壊堕落行為です。
我が國國民が、古典を読まなくなってしまいました。悲しいことです。哀しいことです。
何とその言い訳が「読みにくい」「難しい」「苦手」と「古典の責任」にしていることです。びっくりします。古典の責任にするのではなく、読解力を磨かない自分の責任なのに、古典の責任にしているなんて。そして、この考え方が、歴史や文明や文化を分断している恐ろしい所業であることに気づいていません。罪深い人たちです。
荷物が重たいのではない。荷物を持つ力がない。同様に古典が難しいのではない。読む力をつけようとしていないからです。
そのくせ、悪魔のような人類破壊兵器であるITに必要以上にのめり込んだり、歌謡曲を覚えたり、くだらないTVドラマを観たりしています。人間社会破壊堕落行為です。
「紫式部日記」の寛弘五年十一月一日(1008年12月1日)に、源氏物語の作者 紫式部に対し、藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と語りかけたとあります。意味は「そういえば、このあたりに若紫の姫君がいらっしゃるのでは」です。
若紫はもうご存知ですね。源氏物語の登場人物です。この記述は、日本を代表する古典文学 源氏物語が歴史上初めて記録されたことを意味しています。だから十一月一日が古典の日になりました。
私の夢の一つに、我が国の古典文学をすべて読むことがあります。亡き母が生前、私の甥に、日本文学全集を贈りました。甥が成人して、その全集が私の息子に引き継がれました。家にあります。もう、読みたくて仕方がないのですが、今は、その時間がありません。
本を片手に、本に登場しているところをテクテク歩きながら旅をするのが、私の夢です。世界で唯一歴史が連続した世界最古の國である我が國は、これが可能なのです(支那や韓国ではこれは無理です。アメリカはもちろん。欧州でもこれができるところはほとんどありません。)日本人として生まれて、この素晴らしさを味合わないうちに命を閉じることなどできません。
よく、「日本人は内向きだ」とメディアがのたまいます。とんでもない。自分の國の素晴らしさをこれほど知らない國民も珍しいでしょう。これだけ素晴らしい國なのに。むしろ、日本人が徹底的に内向きになったら、世界はもっと平和になります。
村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことがない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望しましたが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたのです。
式部は祈念のため滋賀県にある石山寺に籠りました(この寺は大好きです。何度行ってもワクワクドキドキします)。
折しも八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮び、手近にあった大般若経の料紙に『今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく...』と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き続けていきました。
源氏物語はこのように書き始めら れ、その部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月の都での管絃の遊びを回想する場面として須磨巻に生かされることになりました。
あ~、いいな~~~~~。我が國に生まれてよかった。
秋の夜長、古典を楽しみましょうよ。古典を読むコツを少し。最初は、まったくわからずイライラします。それで読むのをやめる人がたくさんいます。
言葉の感覚が違うからです。違うというよりも、私たちの方が、間違った日本語を使っているから、本来の、本当の、真の日本人になれないのです。本来の、本当の、真の日本人が言っている言葉が理解できないから古典が読めないのです。
だから、本来の、本当の、真の日本人になるためには、わからなくても、字面や文をなんとなく楽しむように、ページをめくっていきます。これを繰り返すと、いつの日か、「あっ」という瞬間が我が身に訪れます。
ぜひ、やってみてください。國籍だけの日本人なんていやでしょ?
若紫はもうご存知ですね。源氏物語の登場人物です。この記述は、日本を代表する古典文学 源氏物語が歴史上初めて記録されたことを意味しています。だから十一月一日が古典の日になりました。
私の夢の一つに、我が国の古典文学をすべて読むことがあります。亡き母が生前、私の甥に、日本文学全集を贈りました。甥が成人して、その全集が私の息子に引き継がれました。家にあります。もう、読みたくて仕方がないのですが、今は、その時間がありません。
本を片手に、本に登場しているところをテクテク歩きながら旅をするのが、私の夢です。世界で唯一歴史が連続した世界最古の國である我が國は、これが可能なのです(支那や韓国ではこれは無理です。アメリカはもちろん。欧州でもこれができるところはほとんどありません。)日本人として生まれて、この素晴らしさを味合わないうちに命を閉じることなどできません。
よく、「日本人は内向きだ」とメディアがのたまいます。とんでもない。自分の國の素晴らしさをこれほど知らない國民も珍しいでしょう。これだけ素晴らしい國なのに。むしろ、日本人が徹底的に内向きになったら、世界はもっと平和になります。
源氏物語は大好きです。「平安時代寛弘元年(1004)、紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていました。
村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことがない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望しましたが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたのです。
式部は祈念のため滋賀県にある石山寺に籠りました(この寺は大好きです。何度行ってもワクワクドキドキします)。
折しも八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮び、手近にあった大般若経の料紙に『今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく...』と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き続けていきました。
源氏物語はこのように書き始めら れ、その部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月の都での管絃の遊びを回想する場面として須磨巻に生かされることになりました。
あ~、いいな~~~~~。我が國に生まれてよかった。
秋の夜長、古典を楽しみましょうよ。古典を読むコツを少し。最初は、まったくわからずイライラします。それで読むのをやめる人がたくさんいます。
言葉の感覚が違うからです。違うというよりも、私たちの方が、間違った日本語を使っているから、本来の、本当の、真の日本人になれないのです。本来の、本当の、真の日本人が言っている言葉が理解できないから古典が読めないのです。
だから、本来の、本当の、真の日本人になるためには、わからなくても、字面や文をなんとなく楽しむように、ページをめくっていきます。これを繰り返すと、いつの日か、「あっ」という瞬間が我が身に訪れます。
そうです、本来の、本当の、真の日本人になった瞬間なのです!!!
ぜひ、やってみてください。國籍だけの日本人なんていやでしょ?
類のない 文化を誇る 我が國の 古典を繫げ 古典を引き継ぐ
コメントする