いつものように、巻頭言だけ紹介しておきます。
【第七十号:成事・遂事・既往】
いつもお世話になっております。「士魂商才(しこんしょうさい)」第七十号です。タイトルは「成事・遂事・既往」です。「せいじ・すいじ・きおう」とお読みください。
論語の八佾(はちいつ)第三の二十一です。
哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我(さいが)、対(こた)えて曰わく、夏后氏(かこうし)は松を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人 (しゅうひと)は栗(りつ)を以てす。曰わく、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり。子これを聞きて曰わく、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は 諌(いさ)めず、既往(きおう)は咎めず。 |
魯の哀公が宰我に土地の社(やしろ)に植える神木について尋ね、宰我は「夏の時代には松を植え、殷の時代には柏(はく:イトスギ)を植え、周の時代においては栗を植えています。これは社で行われる刑罰によって人々を戦慄(栗)させるためであります。」と答えました。これを聞いた孔子は、「起きた事は語るまい、遂げられた事は止めまい、過去の過ちは咎めまい。」と云いました。これは、事が成された後(終わったあと)に「だから私はあれほど言ったんだ」などといっても仕方がない。取り返しのつかないことをしてしまった人に「なんてことをしたんだ」と追求しても前に進まない。昔のことを掘り起こし「どうして私はあんなことをしてしまったんだ」と自分を咎めても意味がない。という意味です。これが「成事は説かず。遂事は諌めず。既往は咎めず」という言葉になりました。
學べば學ぶほど、かつての我が國の素晴らしさと、今、私たちが作ってしまった、我が國史上最悪の國との状況の乖離に胸が苦しくなります。私たちは、未來へ我が國を引き継げるのでしょうか?たった一度の敗戦によって、身に覚えのない濡れ衣を着せられ、國民がそれを受け入れ、とんでもない國になってしまいました。昨年末來、明るい兆しが見え始めたことと、過去に比べて事実を知ろうとする人たちが増えていることがせめてもの救いです。我が國は、過去恥ずべき行動などしていません。たとえ、身に覚えのないことを、受け容れなければならないとしても、「成事は説かず。遂事は諌めず。既往は咎めず」となぜ、言えないのでしょうか? それも、他國から言われるならまだしも、國内の心なき日本人(?)が言っていることには、怒りを通り越して悲しくなります。
しっかりとした國を創り、かつての素晴らしい我が國を創ってくださった先人たちに感謝し、そして、未來へと引き継いでいく覚悟です。子供たちに、努力をすれば報われる國を遺すために。
今月号もお楽しみください。
感謝合掌
皇紀二千六百七十三年十二月吉日
株式会社 経営戦略室
代表取締役 宝徳 健
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