百人一首 10

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 ついに十首目になりましたね。

 此の人も、最初に知った時(小学校)は、「変な名前だな~」と姉と大笑いしたのを覚えています。蝉丸です。

これやこの 行(ゆ)くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

 逢坂の関とは、京都府と滋賀県にあった関所の名前です。平安時代には、東海道の「鈴鹿の関」、東海道の「不破の関」と合せて「三関」と呼ばれていました。

 関東と関西という言葉は、この三関の東側と西側を分けるものでした。

 三関の中でも、逢坂の関が最も重要でした。京への出入りをする際に誰もが通過する関だったのです。




 滋賀県大津市にあります。大津市は、京都ほど、観光客はいませんが、私の大好きな地です。石山寺もあるし。

 蝉丸は、そんな逢坂の関に住む隠者だと伝えられています。盲目で琵琶の名手だったそうです。後醍醐天皇の御落胤とも云われています。

 この歌は、関所の近くに住んでいた蝉丸が、関所を通る人の生き様を観ていたと思われます。いつも同じことを繰り返す日常の中に、時の移ろい、世の中の変化をという無常観が見事に表現されています。

  我が國は、世界で唯一歴史が連続した、世界最古の國です。では、我が國は、融通のきかない頑固な國だったのか? 違います。 企業の持続と永続と同じで す。人をないがしろにするものは排除する。ですから、我が國は「情報」として支那からいろいろなものを輸入しましたが、決して支那化はしなかった。「情 報」を入手して、「世界で唯一歴史を連続させる」という「君が代」の元に、その「情報」を「インテリジェンス」に変えた國でした。

 それを、敗戦後の私たち、ぶち壊しました。今の我が國は「日本」ではありません。國民が愚かだからです。

 蝉丸のこの歌のように、いつも同じことを観ながら、そこに無常観を観る。この歌は、見事ですね。まさに不易流行です。

つづけ続け 世界に魅せる その奇跡 君が代は 千代に八千代に

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このページは、宝徳 健が2014年1月21日 02:33に書いたブログ記事です。

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