陽成院の歌です。
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
これも正岡子規にぶっとばされそうな、反写実主義の歌です(笑)。
百人一首の作者は、みんな個性的な人ばかり。なので、歌が詠まれたその背景を知ると、とっても面白くなります。
今回もそうです。では、まずは予備知識から。
茨城県を代表する山と云えば、なんと云っても筑波山です。筑波山には男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)があります。その両方から流れ落ち る川が合流して男女川(みなのがわ:水無乃川とも書きます)となります。このことから、恋の歌を詠む題材として古代からよく使われてきました。
陽成院とはだれか。
私たちは、源氏と平氏の出を「清和源氏」「桓武平氏」と習いました。覚えていますか?
清和源氏とは、実質、陽成源氏です。第五十七代貞明天皇(さだあきら)天皇です。九歳で即位し、約七年間は皇位にありました。でも、十七歳の時に、周囲か
ら無理やり退位させられました。次の次に百人一首に出て来る、光孝天皇に位を譲りました(曽祖父の子)。表向きの理由は「病気」です。
陽成院は、八十歳近くまで生きたので病気は本当の理由ではありません。
こういうことは後付けの理由が多いのでよくわかりませんが、精神に障害を持っていて数々の奇行があったとか、サディスティックだったとかいろいろ言われて
います。それらの批判が頂点に達した事件があります。宮中で帝の乳母の子が撲殺されました。陽成天皇が疑われ退位させられました。上皇となりました。
こんな経緯ですから、陽成院は光孝天皇を恨んでいました。しかし・・・・・。陽成院は、光孝天皇の皇女 綏子内親王(すいしないしんのう)に恋をしてしまったのです。
この歌は、その綏子内親王へのラブレターだったのです!!!!!
実は、陽成院は筑波山を観たことがなかったと云われています。イメージで詠んでいます。これを子規はとても嫌います。大好きな子規に逆らうようですが、で
もいいじゃん。この募る思いを水が留まっていく様子を、たとえイメージだとしてもこんな風に表現できるなんて素敵だな。
もし現代人が、ITや歌謡曲なんかに惑わされずに、和歌でこんな素敵な恋の歌を詠めたら、我が國は、確実に平和になります。
えっ?その後、陽成院はどうなったかって? 綏子内親王を后としました。傷心が癒されたことでしょう。
あっ、そうだ歌の意味ね。「筑波山の峰から流れ落ちる男女川(ものがわ)の水が、少しずつ留まってやがて淵となるように、私の恋心も積もり積もって淵になりますよ」
今、このような情緒あるラブレターを贈っても、我が国の女性は、誰も振り向かないでしょうね(笑)。
訓練でこの歌をもじって失恋の歌を詠んでみました。えっ?誰か恋人がいるのかって?子規には怒られそうですが、空想の世界です(笑)。
筑波嶺の 峰より落るつ みなの川 恋ぞやぶれて 淵にとどまらず
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