ちょっとブログがおかしいので保存できるかどうか實驗です。
2014年3月アーカイブ
ウクライナ問題で世界が揺れています。我が國外交の正念場でもありますが、さすが安倍さん、うまく切り抜けていらつしゃいます。今、総理大臣が安倍さんでよかった。現在、この対応を誤ると、我が國は下手をすれば領土を失ふこととなります。まあ、それはいいとして。
続きを読む: ウクライナ?(皇紀弐千六百七十四年參月廿八日の日誌)
昨日も書きましたが、歴史的假名遣ひを学ぶと、現代假名遣ひが、言語としても文法としても如何にでたらめかがわかります。私たちはこんなでたらめなことを學んで來たのですね。弐千六百七十四年の中のたった七十年弱前に決められた現代假名遣ひ。何が目的でこんなことをしたのでせう。
言葉の破壊は民族の破壊です。今の我が國がこんな状態になつている根本原因はここにあります。
今日の漢字は「艷」です。「艶」の正しい漢字です。
言葉の破壊は民族の破壊です。今の我が國がこんな状態になつている根本原因はここにあります。
今日の漢字は「艷」です。「艶」の正しい漢字です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「人は當(当:まさ)に自ら吾が心を礼拝し、自ら安否を問ふべし。吾が心は即ち天の心、吾が身は即ちい親の身なるを以てなり。是を天に事(つか)ふと謂ひ、是を終身の孝と謂ふ」
「人は當(当:まさ)に自ら吾が心を礼拝し、自ら安否を問ふべし。吾が心は即ち天の心、吾が身は即ちい親の身なるを以てなり。是を天に事(つか)ふと謂ひ、是を終身の孝と謂ふ」
続きを読む: 我が心の礼拝
岐阜市のタウン誌に「GiFUTO」と云ふのがあるのですが、これを讀んでいたら、「笠松しこらん」といふ地元のお菓子が紹介されてゐました。へー、食べたことないや。買つて食べます。
続きを読む: 笠松しこらん(皇紀弐千六百七十四年參月廿七日の日誌)
さつぱり分からなかつた歴史的假名遣ひがどんどん理解できるやうになつてきました。變換ソフトはいらないや。ソフトに頼ると腦が劣化するから。返却します。まだまだ未熟なので完全にとはいきませんが樂しい。
分かりにくいと云ふ人もいるかもしれませんが、まず、歴史的仮名遣ひを學ぶと現代仮名遣ひは、明らかに言語として間違ひであることがわかります。それと、やはりDNAでしょう。理解すると、こちらの方がわかりやすい。また、外國人に日本語を教へる時は、歴史的假名遣ひで教へた方が外國人には覺へやすい樣です。
また、歴史的假名遣ひや正しい漢字と云つても、弐割にも満たない割合です。
さあ、私たちの代で歴史を斷絶させないやうにしませう。
今日(けふ)の漢字です。「圓」
現代漢字の「円」です。古代支那の器である「鼎:かなへ」の口が丸かつたので「まるい」と云ふ意味で、鼎が変化して圓と云ふ字が成り立ちました。現代漢字の「円」は正統な成り立ち方をしてゐない略字です。
分かりにくいと云ふ人もいるかもしれませんが、まず、歴史的仮名遣ひを學ぶと現代仮名遣ひは、明らかに言語として間違ひであることがわかります。それと、やはりDNAでしょう。理解すると、こちらの方がわかりやすい。また、外國人に日本語を教へる時は、歴史的假名遣ひで教へた方が外國人には覺へやすい樣です。
また、歴史的假名遣ひや正しい漢字と云つても、弐割にも満たない割合です。
さあ、私たちの代で歴史を斷絶させないやうにしませう。
今日(けふ)の漢字です。「圓」
現代漢字の「円」です。古代支那の器である「鼎:かなへ」の口が丸かつたので「まるい」と云ふ意味で、鼎が変化して圓と云ふ字が成り立ちました。現代漢字の「円」は正統な成り立ち方をしてゐない略字です。
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佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「勸學の方は壹(いち)ならず。各(おのおの)其の人に因りて之を施す。稱(称:ほ)めて之を勸(すす)むること有り。激して之を勸むることあり。又稱めず激せずして、其の自ら勸むを待つ者有り。猶お醫人の病に應じて剤(くすり)を施すに、補瀉(ほしゃ)壹ならず。必ず先ず其の症(やまひ)を察して然するがごとし」
「勸學の方は壹(いち)ならず。各(おのおの)其の人に因りて之を施す。稱(称:ほ)めて之を勸(すす)むること有り。激して之を勸むることあり。又稱めず激せずして、其の自ら勸むを待つ者有り。猶お醫人の病に應じて剤(くすり)を施すに、補瀉(ほしゃ)壹ならず。必ず先ず其の症(やまひ)を察して然するがごとし」
続きを読む: 勸學の方
スマフォが惡いと云つてゐません。スマフォを使ふ多くの人間をどうにかしてほしい。
歩きながらフマフォを操作し通行人に迷惑をかけている人間。集団でスマフォのゲームに興じながら歩き通行の邪魔になつている奴ら。電車が駅に着いて乗客が乗ろうとしているのに、ギリギリまでフマフォを操作して乗つて來る客の邪魔になる人間。自転車に乗りながらスマフォを操作する奴。自動車に乗りながらもあります。
歩きながらフマフォを操作し通行人に迷惑をかけている人間。集団でスマフォのゲームに興じながら歩き通行の邪魔になつている奴ら。電車が駅に着いて乗客が乗ろうとしているのに、ギリギリまでフマフォを操作して乗つて來る客の邪魔になる人間。自転車に乗りながらスマフォを操作する奴。自動車に乗りながらもあります。
昨日はIKさんに、牡丹鍋をご馳走になりました。抜群においしかつた。お店の名前は「とらや」。
続きを読む: とらや(皇紀弐千六百七十四年參月弐十四日の日誌)
一昨日の続きです。
仰げば尊しは、現在では全國的にみると小學校で11.1%、中學校で25.4%しか歌われていません。音樂の教科書には、掲載率は100%に近いさうですが、本來參番まである唱歌なのに、「互に睦し」から始まる弐番の歌詞が削除されてゐる教科書が、昭和五十年代から加速度的に増えて、最近では100%に近いさうです。
仰げば尊しで一番美しいのは弐番です。
仰げば尊しは、現在では全國的にみると小學校で11.1%、中學校で25.4%しか歌われていません。音樂の教科書には、掲載率は100%に近いさうですが、本來參番まである唱歌なのに、「互に睦し」から始まる弐番の歌詞が削除されてゐる教科書が、昭和五十年代から加速度的に増えて、最近では100%に近いさうです。
仰げば尊しで一番美しいのは弐番です。
続きを読む: 仰げば尊し 弐(皇紀弐千六百七十四年參月弐十弐日の日誌)
今日(けふ)の漢字は、「驛」です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
「仰げば尊し」は明日からまた書きます。題名がタイムリーなものですから。
舊暦弐月弐十弐日は、聖徳太子の御命日です。今の暦で参月弐十弐日です。この日は法隆寺で聖霊会が行はれます。「お会式(おえしき)」「小会式(しょうえしき)」と呼ばれています。
舊暦弐月弐十弐日は、聖徳太子の御命日です。今の暦で参月弐十弐日です。この日は法隆寺で聖霊会が行はれます。「お会式(おえしき)」「小会式(しょうえしき)」と呼ばれています。
続きを読む: 法隆寺聖霊会(皇紀弐千六百七十四年參月弐十壹日の日誌)
今日の漢字は「衞」です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「果斷は義より來る者有り。智より來る者有り。勇より來る者有り。義と智とを併せて來る者有り。上(じょう)なり。徒勇のみなるは殆(あやう)し」
「果斷は義より來る者有り。智より來る者有り。勇より來る者有り。義と智とを併せて來る者有り。上(じょう)なり。徒勇のみなるは殆(あやう)し」
続きを読む: 果斷
小學生の頃、初めて仰げば尊しを聞き、そして歌いました。もちろん意味は分かりませんでしたが「きれいな歌だな~」と感動したのを覺えています。それが、今、ほとんど歌われていません。なぜ、大人たちは、我が國をダメにすることばかりを子供たちに押し付けるんだろう???
國家破壊者は、我が國から出て行けばいひのに。かつてあんなに美しかった我が國を、敗戦後の私達はどんどん汚しています。
國家破壊者は、我が國から出て行けばいひのに。かつてあんなに美しかった我が國を、敗戦後の私達はどんどん汚しています。
続きを読む: 仰げば尊し壹(皇紀弐千六百七十四年參月弐十日の日誌)
先づ漢字「榮」です。
昨日の營でも書きましたが。この火が弐つついた冠は、たいまつを交差させた形です。宮殿や兵士の宿舎の前でかがり火をたいて敵が来るのを警戒した様子を表してゐます。だから火の光がはなやぐさまを云ひます。
昨日の營でも書きましたが。この火が弐つついた冠は、たいまつを交差させた形です。宮殿や兵士の宿舎の前でかがり火をたいて敵が来るのを警戒した様子を表してゐます。だから火の光がはなやぐさまを云ひます。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「官に居る者は、事未だ手に到らざるとき、阪路を攀(よ)ずるが如し、歩歩艱難すれども、卻(かえ)って蹉跌(さてつ)無し。事既に手に到れば、阪路を下るが如し、歩歩容易なれども輒(やや)もすれば顛踣を致す」
「官に居る者は、事未だ手に到らざるとき、阪路を攀(よ)ずるが如し、歩歩艱難すれども、卻(かえ)って蹉跌(さてつ)無し。事既に手に到れば、阪路を下るが如し、歩歩容易なれども輒(やや)もすれば顛踣を致す」
続きを読む: 蹉跌と顛踣
支那の北宋時代のこんな詩があります。
「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く。夏山蒼翠(そうすい)として滴るが如く。秋山明浄にして装うが如く。冬山惨憺(さんたん)として眠るが如し」
支那人は、出来る出来ないは別としてこういふ格好をつけることは得意ですね。
この詩から、春の山は「山笑う」と云います。
「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く。夏山蒼翠(そうすい)として滴るが如く。秋山明浄にして装うが如く。冬山惨憺(さんたん)として眠るが如し」
支那人は、出来る出来ないは別としてこういふ格好をつけることは得意ですね。
この詩から、春の山は「山笑う」と云います。
続きを読む: 山笑う
昨日、夕食を共にした方からある本をいただきました。その本の中に、こんなことが書いてありました。
続きを読む: のうなんかしょう(皇紀弐千六百七十四年參月十九日の日誌)
私も、しょっちゅうやるのですが、相手を説得しようとこちらの考えを伝へよう伝へやうとするときがあります。
今日は「營」です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
小学校の頃、我が國最初の征夷大将軍 坂上田村麻呂を習ひました。今回の歌の作者は、その坂上田村麻呂のひ孫です。彼も參十六歌仙の壹人です。坂上是則です。
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
続きを読む: 百人壹首 參十壹
今日の産經新聞にとってもよい記事が載ってゐました。「現代(いま)生きる神話 祭られる神々」です。古事記・日本書紀の関連記事です。産經は時々これを掲載してくれます。とても面白い。
今日は「隱」です。「隠」の正しい正しい漢字です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
メディは、例えば、他の國で、軍事政権が出来たとしたら批判します。讀者は當然の如く讀みます。軍事政権ってそんなに惡いの?
続きを読む: 我が國の自衛隊(皇紀弐千六百七十四年參月十五日の日誌)
今日の漢字は「飮」です。 正字は「㱃」です。「酓(いん)」と「欠(けん)」が合わさっています。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しひ漢字
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「才有りて量無ければ、物を容るるに能(あた)わず。量有りて才無ければ、亦事を済(な)さず。両者兼ぬることを得可(うべ)からずんば、寧ろ才を捨てて量を取らん」
「才有りて量無ければ、物を容るるに能(あた)わず。量有りて才無ければ、亦事を済(な)さず。両者兼ぬることを得可(うべ)からずんば、寧ろ才を捨てて量を取らん」
続きを読む: 才と量
素晴らしい三人の著者がいます。
私は、學生時代一人旅が大好きでした。一番思い出に残っているのが、司馬遼太郎の「街道を行く1 湖西の道」をもって湖西(琵琶湖の西の道)をテクテク歩いたことでした。
続きを読む: 眞実を知ること(皇紀弐千六百七四年參月十弐日の日誌)
今日はなんの日ですか?
もう參月の中旬だというのに、寒いですね。今日から一泊で小浜に行きますが、なんと日本海側は雪です。
続きを読む: 小浜に行ってきます(皇紀弐千六百七十四年參月七日の日誌)
若き獅子 倉山満がまた新しい本を出しました。彼はすごい。私もこれから注文しますが、ワクワクしています。「歴史問題は解決しない」「保守の心得」です。
続きを読む: 本の紹介(皇紀弐千六百七十四年參月五日の日誌)
今日の漢字は「稻」です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
佐藤一斎先生の言志四録からです。
「志、人の上に出ずるは、倨傲(きょうごう)の想に非ず。身人後に甘んずるは委苶(いてつ)の陋(ろう)に非ず」
「志、人の上に出ずるは、倨傲(きょうごう)の想に非ず。身人後に甘んずるは委苶(いてつ)の陋(ろう)に非ず」
続きを読む: 志は高く、身を持するは低く
今、正しい漢字と歴史的假名遣ひを學んでいます。
使い方が間違っているかどうかも分かりませんし、假名遣ひなど、理解不能なことが多いのも事實です。新しいことにチャレンジすると必ず強いストレスを感じます。
使い方が間違っているかどうかも分かりませんし、假名遣ひなど、理解不能なことが多いのも事實です。新しいことにチャレンジすると必ず強いストレスを感じます。
前回まで、「旧假名遣い」としていましたが、今回から「歴史的假名遣い」にします。「旧」ではないですよね。今の私たちの行いの方が間違っているのに、それを「新」と「旧」で比較するのは正しくない。それと、「旧」の正しい漢字は「舊」です(ちなみに)。
今日の漢字は壹です。
今日の漢字は壹です。
続きを読む: 歴史的假名遣ひと正しい漢字
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「我は當(当:まさ)に人の長処を視るべし。人の短処を視るころ勿れ。短処を視れば、則ち我れ彼れに勝り、我れに於いて益無し。長処を視れば、則ち彼れ我れに勝り、我れに於いて益有り」
わー、いいですね~。今日、これをやってみます。
「我は當(当:まさ)に人の長処を視るべし。人の短処を視るころ勿れ。短処を視れば、則ち我れ彼れに勝り、我れに於いて益無し。長処を視れば、則ち彼れ我れに勝り、我れに於いて益有り」
わー、いいですね~。今日、これをやってみます。
人は皆 己考え 他人視る 己視ながら 他を考えよ
藤原家のスーパーヒーローの登場です。百人一首では、貞信公となっていますが、藤原忠平(ふじわらのただひら)です。貞信公は諡(おくりな:亡くなってから德を讃えて贈る呼び名)です。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
続きを読む: 百人一首 弐十六
今日から、七十二候 第七候 啓蟄(けいちつ) 初候 「 蟄虫啓戸」です。
七十二候は、寳暦暦・寛政暦と宣明歴があって、読み方が違うのです。前者では、「ちっちゅうこをひらく」、後者では「すごもりむしとをひらく」と読みます。宣明歴の方がいいですね。
七十二候は、寳暦暦・寛政暦と宣明歴があって、読み方が違うのです。前者では、「ちっちゅうこをひらく」、後者では「すごもりむしとをひらく」と読みます。宣明歴の方がいいですね。
続きを読む: 蟄虫啓戸
JR東海の月刊誌「ひととき」。心をほっとさせる本です。參月号に、靜岡縣北部にある安倍川上流の有東木(うとうぎ)というば所が紹介されていました。天城や長野の山葵の産地はよく知っているのですが、ここを知ったのは初めてです。
こういう一隅を照らす方々は素敵ですね。我が國が世界で唯一歴史が連続したのは、國民がわがままを云わず、ひとり一人が、自分の役割を探し、見つけ、それを果たしてきたからです。役割分担というほんとうの意味での個性をそれぞれが一隅を照らしながら果たしてきたからです。役割分担。良い言葉ですね。そこには、不合理・不都合・鬱陶しさ・不条理などたくさん自分にとって好ましくないことがあるでしょう。でも、それを乗り越えて・・・・・・。
こういう一隅を照らす方々は素敵ですね。我が國が世界で唯一歴史が連続したのは、國民がわがままを云わず、ひとり一人が、自分の役割を探し、見つけ、それを果たしてきたからです。役割分担というほんとうの意味での個性をそれぞれが一隅を照らしながら果たしてきたからです。役割分担。良い言葉ですね。そこには、不合理・不都合・鬱陶しさ・不条理などたくさん自分にとって好ましくないことがあるでしょう。でも、それを乗り越えて・・・・・・。
続きを読む: 蕎麦と山葵(皇紀弐千六百七十四年參月弐日の日誌)
今日の歌は、高ピーな人間が詠んでいるのであまり好きではありません。
高度すぎてわかる人が当時でもいたのか疑問です。
名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人にしられで くるよしもがな
高度すぎてわかる人が当時でもいたのか疑問です。
続きを読む: 百人一首 弐十五
佐藤一斎先生の「言志四録」からです。
「少なくして學べば、則ち壯にして爲すこと有り。壯にして學べば、則ち老いて衰えず。老いて學べば、則ち死して朽ちず」
解説入らないですね。一生勉強です。
「少なくして學べば、則ち壯にして爲すこと有り。壯にして學べば、則ち老いて衰えず。老いて學べば、則ち死して朽ちず」
解説入らないですね。一生勉強です。
士魂商才第七弐號がもうすぐ完成します。校正をして印刷してセットして、明日發送します。巻頭言だけ紹介しておきます。
続きを読む: 士魂商才第七十弐號(皇紀弐千六百七十四年参月壱日の日誌)
どんどん続けます。まずは漢字。
お医者さんの「医」です。古い医院などでみられますね。
お医者さんの「医」です。古い医院などでみられますね。
続きを読む: 旧假名遣いと正しい漢字
今は、七十二候 六候 雨水 末候 「草木萌動」です。「そうもくもえうごく」と読みます。草木が芽吹き始める頃です。
二月下旬から三月にかけて降る雨を「木の芽起こし」といいます。
二月下旬から三月にかけて降る雨を「木の芽起こし」といいます。
続きを読む: 草木萌動