今日の漢字は「卷」です。略字は巻です。
「卷」は身を屈折させた象形文字です。「まるめる」=卷くとなりました。人が體を屈めて丸くなった姿です。
歴史的假名遣ひです。福田先生の本から。
「といふより、大方の人は讀み終つて本を閉ぢて、今のは歴史的なかづかひで書かれてゐたか「現代かなづかい」で書かれてゐたかと問はれれば、おそらく答へに窮するくらゐ歴史的かなづかひの讀みには慣れてゐるのです。それも当然でせう。數年前、「文藝春秋」の随筆蘭に書いたことがありますが、當時小學校四年生の私の次男は、私の著書の校正刷をのぞきこんでゐて、自分達のかなづかひと異なることを發見し、「をかしいな、<いう>が<いふ>と書いてあるよ」とか「<そうして>が<さうして>になつてゐるよ」とか言つたものです。それだけでも、「さう」が「そう」と同じに讀まれるべきものであることを承知してゐることは明らかでありますが、さらにそのあとを一頁ばかり讀ませ、つかへたところは類推させるやうにして、その後も數囘實驗してみますと、その度に際立つてなめらかになるのです」
歴史的假名遣ひです。福田先生の本から。
「といふより、大方の人は讀み終つて本を閉ぢて、今のは歴史的なかづかひで書かれてゐたか「現代かなづかい」で書かれてゐたかと問はれれば、おそらく答へに窮するくらゐ歴史的かなづかひの讀みには慣れてゐるのです。それも当然でせう。數年前、「文藝春秋」の随筆蘭に書いたことがありますが、當時小學校四年生の私の次男は、私の著書の校正刷をのぞきこんでゐて、自分達のかなづかひと異なることを發見し、「をかしいな、<いう>が<いふ>と書いてあるよ」とか「<そうして>が<さうして>になつてゐるよ」とか言つたものです。それだけでも、「さう」が「そう」と同じに讀まれるべきものであることを承知してゐることは明らかでありますが、さらにそのあとを一頁ばかり讀ませ、つかへたところは類推させるやうにして、その後も數囘實驗してみますと、その度に際立つてなめらかになるのです」
コメントする