百人一首 八十八

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難波江の 葦のありねの 一夜ゆゑ みをつくしてや 戀わたるべき

 皇嘉門院別當(こうかもんいんべつとう)の歌です。皇嘉門院聖子(こうかもんいんせいし:崇徳院の中宮)に仕へた女官長の役職名です。本名は不明です。
 皇室の歴史の中で最大の悲劇である崇徳上皇については、このブログで繰り返し述べてまいりました。もし、ご興味のある方は、右下のアーカイブ「2011年2月27日~20113月3日)の記事「魚は頭から腐る」のをお讀みください。

 崇徳上皇が隱岐に流されたあと皇嘉門院聖子は出家してゐます。晩年の寂しい聖子の話し相手になつて、最後まで仕へたのが皇嘉門院別當でした。
 
 今では、難波江といふと大阪市中央区のオフィス街ですが、この頃は、入江になつてゐました。

「難波江の、刈られた葦の根の一節のやうな、短い一夜の假寝のために、この身をつくしてあなたを戀し續けなければならないのですか」

 もつとくだけて訳します。

「ゆきずりの戀やねん。たつた一夜のことやのに、これから一生思い續けなあかんのやろうか。あぁ、たまらん苦しいわ」

 中宮に仕へてゐた人が、こんな歌を詠むでせうか(笑)。これは歌合の時にお題として詠まれたものです。実體驗ではありません。

 「刈り根」と 「假寝」をかけています。「身をつくす」は「澪標(船が入江を航行する際の目印)」を掛けてゐます。澪標は現在の大阪市の市章です。大阪がいかに水の都だつたかがわかります。

 貴族の娘の「かういふ戀もしたい」といふ願望だつたのですね。


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このページは、宝徳 健が2014年8月 2日 04:41に書いたブログ記事です。

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