金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)

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 いいですね~。この本來の日本語を、敗戰後、愚かな私たちは、捨て去つてしまひました。現代假名遣ひでは、日本語は不完全です。言葉の本來の意味がわからなくなる。現代假名遣ひを「言葉の進化」としてとらへる愚かなる考へもあります。

 漢字もさうです。漢字には「字源」があります。白川静先生のご著書を讀むと樂しくてしかたがありません。それを意味もない今の漢字にしてしまひました。親は子供に云ひます。「漢字の勉強をしろ!」と。つまり「嘘を學べ」と云つてゐるのと同じです。子供は漢字に興味を持たなくなります。愚かなことです。

 さて、不朽の名作 三島由紀夫の金閣寺のつづきです。


 そのとき、私は自分が化石に化してしまつたのを感じた。意志も欲望もすべてが石化した。外界は、私の内面とは關りなく、再び私のまはりに確乎として存在してゐた。叔父の家を抜け出して、白い運動靴を穿き、曉闇の道をこの欅のかげまで駆けて來た私は、ただ自分の内面を、ひた走りに走つたて來たにすぎなかつた。曉闇の中にかすかな輪郭をうかべてゐる村の屋根屋根にも、黑い木立にも、青葉山の黑い頂きにも、目前の有爲子にさへも、おそろしいひど完全に意味が缺けてゐた。私の關與を待たずに、現實はそこに賦與されてあり、しかも、私が今まで見たこともない、重みで、この無意味な大きな眞暗な現實は、私に與へられ、私に迫つてゐた。

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このページは、宝徳 健が2014年8月 3日 05:02に書いたブログ記事です。

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